直子は、最初のころを思い返すたびに、あの人の愛情の受け止め方がわからず、ただ戸惑っていた自分を思い出す。
夫は、直子に似合うものをよく知っているつもりでいた。似合う色、似合う形、似合う靴。服も鞄も、気がつけば彼の好みで揃えられていた。外へ出ればすぐにカメラを向けられ、旅行先でも、近所への買い物でも、夫の視線はいつも直子を追っていた。若いころは夜の気配にも強く、直子は「愛される」という言葉の重さを、身体ごと覚え込んでいった。
夫は直子より十歳年上だった。仕事が忙しくなるにつれて立場も変わり、若いころのような勢いは少しずつ薄れていった。それでも、向けてくるまなざしの熱だけは変わらない。だから直子も、黙って受け身でいるわけにはいかなかった。
いつのまにか、夫の好みは服だけでは足りなくなった。下着、少し変わった衣装、見ているだけで頬が熱くなるような品まで、直子は身につけるようになっていた。夫の元気が落ちるときには、直子のほうから寄り添い、気を配り、時には夫が持ち帰った妙なおもちゃさえ、いやだと言わずに受け入れた。
カメラの趣味も、夫の中ではずっと生きていた。寝床で撮られた写真。夜更けに外へ連れ出されて、恥ずかしさに身をよじる姿。そんなものが、夫婦のあいだでは、いつしか香辛料のような役目を果たしていた。少し刺激が強い。けれど、その刺激があるからこそ、二人の間の火は消えずに済んでいた。
それでも直子は、あの写真は二人だけのものだと思っていた。ところが夫は、どうやらそれだけでは満足できなくなっていたらしい。誰かに見せた気配がある。そう気づいたとき、直子の胸には、恥ずかしさと不安と、ほんの少しの好奇心が同時に芽生えた。
「そんな恥ずかしいこと、おやめになって。もう協力しまへんえ」
そう言うと、夫は悪びれた様子もなく笑った。
「顔がわからんようにして、信用できるやつに少し見せただけや。安心し」
「いったい誰に見せはったんですの」
「部下の寺田君や」
「あら、あのお人、このあいだ若いお嫁さんもろたばっかりやおへんか」
「そうや。けどな、結婚前から見せてた」
直子は呆れたふりをしながら、内心では妙な熱を感じていた。寺田という男は、ただの部下ではない。自分の知らないところで、夫と同じものを見た男なのだと思うと、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
「寺田さん、なんて言うてはったん」
「気になるんか」
夫はそう言って笑う。直子は否定しようとして、できなかった。
「ちゃんと綺麗に撮れてるか、それだけです」
「ほんまは、恥ずかしいのが少ぉし嬉しいんやろ」
図星を刺され、直子は黙るしかなかった。
やがて、夫が寺田を家へ連れてくると言い出したとき、直子は本気で驚いた。写真だけで顔がわかるはずはない。そう言われても、問題はそこではない。自分の姿を見た男が、実際に目の前へ来る。その事実だけで、直子の気持ちは落ち着かなくなっていた。
寺田は、直子より若く、細身で、どこか神経質そうな男だった。けれど酒が入ると、意外なほどよく喋った。最近もらったばかりの妻のことを嬉しそうに語り、夫のことを「頼りがいのある上司です」と何度も褒める。人のいい男ではあるが、同時に頭の回る感じもあって、直子は少し気圧された。
やがて寺田は、直子を見てふと目を細めた。
「奥さまは、ほんまお綺麗ですね」
そのあと、何気ない口ぶりで続けた。
「……口元に黒子、おありですね」
その瞬間、直子の背筋がすっと冷えた。寺田自身も、言ってしまってから気づいたのだろう。顔色が変わり、口をつぐむ。夫もまた、驚いたように固まった。
その反応だけで、直子には十分だった。寺田が見た写真の女が自分だと、彼は悟ってしまったのだ。
恥ずかしい。けれど、どこかおかしい。腹立たしいようで、妙にくすぐったい。直子の身体の奥では、説明のつかないざわめきが広がっていた。
その夜は、それで終わった。けれど後日、寺田が妻を連れて詫びに来るという話になり、直子はまた胸のあたりが騒がしくなるのを感じていた。
寺田の妻は、佐登美という可愛らしい名の女性だった。まだ若く、学校を出てほどなく寺田と結ばれたらしい。健康的で、張りのある肌をしていて、見ているだけで眩しい。背もすらりと高く、身体つきにも若い弾力があった。
直子は、ふと自分の若いころを思い出した。こんなふうに見られていた時代が、自分にも確かにあったのだろうか。そんな気持ちになって、佐登美を見つめてしまう。
夫は案の定、カメラを持ち出した。皆で記念に撮るだけでは終わらない。いつものように直子をじっくり写しはじめる。すると突然、夫は言った。
「奥さんも撮らせてもろてもええかな」
直子は息をのんだ。寺田は、自分のあの写真を見てしまっている。そんな男の前で、今度は妻が撮られる。寺田はどんな気持ちになるのだろう。そう思った直子が返事を迷っていると、寺田より先に佐登美が口を開いた。
「撮っていただけますやろか」
直子は思わず佐登美を見た。恥ずかしそうではある。けれど、それだけではない。どこか胸を弾ませているようにも見える。
夫は嬉しそうに、すぐ撮影の支度を始めた。直子は佐登美の顔に軽く粉をはたき、口紅を引いてやる。夫の好みそうな、少し艶のある表情に整えていくと、佐登美は鏡の中の自分を見て、頬を赤らめた。
「あら……」
その声は小さかったが、直子にはよく聞こえた。紅を差した以上に、顔全体が熱を帯びている。
「佐登美さん、脚長いさかい、ヒール履いたらもっと映えるなあ」
夫がまた妙なことを言い出し、寺田夫妻は断りきれないまま、高い靴を履かされて縁側に立たされた。最初はぎこちなかった佐登美も、だんだん身体がほぐれてきたのか、いくつもポーズを変えるようになる。
その姿を見ているうちに、直子の胸の奥もじわじわと熱くなっていった。
男二人が書斎へ入ってしまい、居間には直子と佐登美だけが残された。襖の向こうから、ときおり笑い声が漏れてくる。夫の低い声と、寺田の少し高い声。何を話しているのかは聞き取れない。ただ、その聞こえそうで聞こえない距離感が、かえって気になって仕方がない。
佐登美は高い靴を履いたまま、膝をそろえて座っていた。落ち着かない様子を見て、直子はそっと靴を脱がせてやる。細く白い足首が、裾の下からのぞいた。その瞬間、直子は理由のわからない感情で、その足元を見つめてしまった。
「……こんなこと、初めてです」
佐登美が小声で言う。
「いややった?」
そう尋ねると、返ってきたのは意外な答えだった。
「いややないんです」
その一言が、妙に熱を含んでいた。直子は思わず笑ってしまう。
「男の人いうのは、よう似たところがありますわ」
「直子さんの旦那さまみたいなお人、初めて見ました」
「私も最初は驚きましたえ」
けれど佐登美は、そこで言葉を切ったあと、少し考えるような顔をした。
「でも……」
「でも?」
「綺麗にしてもろうて、見つめられてると……なんや、自分が別の人みたいで」
その表情を見たとき、直子ははっきり感じた。佐登美は恥ずかしがっているだけではない。どこかで、もう戻れないほど気持ちが動き始めている。
直子は口では軽くたしなめるようなことを言いながら、自分自身も、かなり深いところまで引き込まれているのではないかと感じていた。
「あんまり、主人の言うことばっかり真に受けたらあきまへんえ」
そう言った直子だったが、実際には、自分こそがもう後戻りできない場所に足を踏み入れている気がしていた。
「直子さんは……」
「なんですの」
「ほんまは、いややないんでしょう」
返事はできなかった。襖の向こうでは、また男たちが笑っている。その声は、もう遠い世界の出来事のように感じられた。
直子は、佐登美の頬に残る紅を見つめる。なんとはなしに髪を耳へかけてやると、指先が触れた途端、佐登美の肩が小さく震えた。
「あ、ごめんなさい」
「……いえ」
その「いえ」は、ひどくやわらかかった。
直子は、自分がしてはいけないことをしているような、妙な背徳感に包まれていた。
佐登美の胸のうち
佐登美は、兄弟の末っ子だった。子どものころから、写真を撮られる機会などほとんどなかった。寺田はよく「好きや」「可愛ええ」と言ってくれる。けれど、あんなふうにじっと見つめられ、身体の隅々まで写されるような経験は初めてで、気恥ずかしいのに、胸の奥は妙に弾んでいた。
あの日からしばらくして、寺田がカメラを買って帰ってきたとき、佐登美は心臓が高鳴るのを止められなかった。
――ああ、この人、ほんまにうちを見てくれてる。
そう思っただけで、嬉しさが込み上げた。その夜、佐登美は自分から着物を脱いだ。寺田に写真を撮ってもらい、そのまま抱かれて眠った。
写真は、決して上手とは言えない。けれど、どの一枚にも、寺田の「好き」がそのまま焼きついているように思えた。
「うち、こんな顔して笑うんや」
「こんな身体してたんや」
自分で見て、自分に驚いた。
やがて寺田は、直子の写真も見せてくれた。顔を隠さずに裸になっているもの。いやらしい衣装を着て、こちらを見て笑っているもの。夜の公園を、下着のような格好で歩いているもの。
佐登美は見ているだけで身体が熱くなっていくのを感じた。
寺田が自分にもああいうことを望んでいるのか、そこまではわからない。けれど、もしこの人のためになるのなら、やってみてもいい。そんな気持ちが芽生えていた。
何より、直子がやけに立派な女に見えた。恥ずかしいことをしているはずなのに、下品なはずなのに、どこか艶っぽくて、堂々としている。その姿が、佐登美には羨ましかった。
もちろん、恥ずかしさはある。けれど、その恥ずかしささえ、くすぐるように身体の中を這っていく。初めて寺田に抱かれた夜のように、身体がぱっと開いていくような気持ちになる。
直子に会いたい。話してみたい。
同じものを見て、同じように胸を騒がせている女が、この世にもう一人いる。その事実だけで、佐登美の興奮は日に日に強くなっていった。
悪く言えば、それは共犯者に近い感覚だったのかもしれない。
直子から「二人で会いたい」と誘われたとき、佐登美は飛び上がりたいほど嬉しかった。やっと来た、と思った。あれから寺田は、何度も佐登美にレンズを向けた。着物の裾を少し乱したり、わざと妙な格好をさせたり。半分は芝居だった。恥ずかしがる顔のほうが、寺田は喜ぶから。
けれど、本当のところは、それだけではなかった。
佐登美は、直子に会うその日を、心から待ち望んでいた。
写真の向こうでしか知らなかった女と、同じ空気を吸う。恥ずかしさと好奇心と、言葉にしにくい熱を分け合う。そんな予感が、佐登美の胸を何度も叩いていた。