R18短編小説

異動先の図書館で上司と揺れる夜

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執筆:編集部(原記事に基づく再編集) 編集部による品質基準審査済み
異動先の図書館で上司と揺れる夜

市役所に勤めて三年目の春、ぼくは図書館へ異動になった。窓口で飛び交う怒号も、書類の山に埋もれるような日々も、そこにはない。代わりにあるのは、静かな足音と紙の匂い、そして少しだけ気まずい沈黙だった。

前の職場に比べれば、ずっと穏やかだ。けれど、穏やかすぎる毎日は、案外退屈でもある。そんなぼくにとって、女性職員の多いこの職場は、静けさの中に小さな刺激が散らばっている場所でもあった。

大島彩さんは、その中でもひときわ目を引く人だった。小柄で、少しふっくらしていて、肌は白い。ぱっと見は控えめなのに、笑うと急に幼く見えて、妙に人懐こい。ある日、彼女はトイレの近くでぼくを小さく手招きした。

「河島さん、ちょっと」

呼ばれて近づくと、彩さんは周囲を気にするように視線を走らせ、それから多目的トイレの扉をそっと開いた。ぼくは戸惑いながらも、そのまま中へ入る。

「これ、この前のお礼に」

差し出された紙袋の中には、手作りらしい焼き菓子が入っていた。もう一つ、折りたたまれた手紙のようなものも見える。

「傘のお礼ですか?」

少し前、帰り際に突然の雨に降られた彩さんへ、ぼくは自分の傘を貸したことがあった。あのときのことを、彼女は覚えていてくれたらしい。

「ええ。字、汚いですけど……あとで見てもらえたら嬉しいです」

「ありがとう。でも、わざわざトイレじゃなくても」

「課長に見られるとうるさいから」

そう言うと、彩さんは少しだけ肩をすくめて笑った。

その課長というのは、ぼくと同じ市役所から来ている長谷川律子だった。四十歳。痩せ型で眼鏡をかけ、短い髪をきっちり整えている。館長としてぼくより少し前に着任した人で、仕事中の私語をひどく嫌う。男女が雑談しているだけでも目ざとく見つけては、ぴしりと注意するような、かなり厳しいタイプだった。

潔癖なのか、男が苦手なのか、それともただ職場の空気に神経質なだけなのか。独身だという話だけが、妙に妙齢の彼女を際立たせていた。

定時を過ぎるころには、職員たちはひとり、またひとりと帰っていった。ぼくは残務が少し残っていたので、片づけをしながら最後まで事務室に残ることになった。静けさが戻った室内で、蛍光灯の白い光だけが机の上を平板に照らしている。

「河島くん、ちょっといい?」

振り向くと、そこにいたのは律子課長だけだった。帰り支度をしながら、彼女はぼくをまっすぐ見ている。

「大島さんと、何を話してたの?」

「えっ。いつの話ですか?」

とぼけたのは、見られていたと直感したからだ。多目的トイレに入るところまで、しっかり目撃されていたのだろう。

「男女で一緒に多目的トイレに入るかしら」

声は静かだったが、圧は十分だった。

「ああ、この前、傘を貸したので……そのお礼にお菓子をもらっただけです」

言い訳を重ねるより、先に事実を話したほうがいい。そう思って答えたのに、律子は納得しない。

立ち上がって出口へ向かおうとすると、彼女は腕を組んだまま、扉の前にすっと立ちはだかった。

「トイレでお菓子を渡す? 河島くん、正直に言いなさい」

その言い方が、妙に胸に刺さった。問い詰められるたび、ぼくの中で何かがじわじわと熱を持ちはじめる。説明しても説明しても、彼女は首を縦に振らない。静かな室内で、二人の声だけが小さく反響していた。

「本当に、それだけです」

「じゃあ、どうして隠すような真似をしたの」

「隠してません。たまたまです」

「たまたま、ね」

律子は冷たく言い切った。ぼくはその視線に苛立ち、同時に、妙な焦りも覚えていた。何を証明すればいいのか、自分でもわからないまま、押し問答だけが続く。

気づけば、ぼくは彼女の前を押しのけるようにして出ようとしていた。だが、律子も引かなかった。肩がぶつかり、狭い事務室の中で軽く揉み合う。

その瞬間だった。

ぼくの手が、思いがけず彼女の胸元に触れた。柔らかい感触が手のひらに残り、血の気が一気に上がる。しまった、と思ったのに、もう遅かった。

「ちょっと、何をするの!」

律子は反射的に胸を隠し、半身になってぼくを睨んだ。だが、怒鳴り声のわりに、その背中はどこか無防備に見えた。

ぼくの中で、理性がひび割れる音がした。

「大島さんとは何もないです」

言い訳のはずの言葉を吐きながら、ぼくは背後から彼女を抱き寄せた。腕組みして守ろうとする手を上へ押し上げるようにして、上半身に触れてしまう。律子の息が、かすかに乱れた。

驚いたのか、それとも戸惑っているのか。彼女は声にならない声を漏らすだけで、強く突き放してはこなかった。

「わ、わかったわ。わかったから……」

「別に、彼女のことが好きなわけじゃないです」

「だから、やめなさい」

「好きなのは、課長だけです」

本心ではない。場を収めるために、咄嗟に飛び出した言葉だった。けれど、その一言は思った以上に律子の表情を揺らした。

彼女は息を呑み、ぼくを見返した。怒りに固まっていた顔が、少しずつ熱を帯びていく。ぼくはその隙に、彼女の首筋へ顔を寄せた。近くで見ると、律子の肌は驚くほど白い。眼鏡の奥の瞳が揺れ、長く閉じられる。

抵抗は、もうほとんどなかった。

ぼくは彼女の腰を抱え、密着したまま、逃げ道を少しずつ奪っていく。事務机の上には書類が積まれ、ロッカーの扉は半端に開いていた。誰もいないはずの職場なのに、妙に現実感があった。こんな場所で、こんなことをしている。そう思うほど、熱はさらに強くなる。

「河島くん、そんなに……」

「止まりません」

律子の声は、最初の鋭さを失っていた。代わりに、かすかな息遣いだけが増えていく。ぼくはその反応に背中を押されるように、彼女を抱きしめたまま、ゆっくりと自分の気持ちを重ねていった。

「課長じゃなくて、律子って呼んでほしい」

その願いは、思いのほか弱々しかった。

「律子」

名前を呼んだ瞬間、彼女の肩がぴくりと震える。

「……もっと」

それは命令ではなく、懇願に近かった。ぼくはその声に導かれるように、彼女の緊張をほどいていった。普段はあれほどきっちりしている人なのに、今は別人のように息を乱し、眼鏡の奥の瞳を潤ませている。

時間の感覚は、そこで曖昧になった。机の角、カーテンの隙間から漏れる街灯の光、紙の擦れる音。そういう細かなものが、妙に鮮明だった。

やがて律子は、ぼくの腕の中で力を抜き、諦めたように身を預けた。最初は拒んでいたはずなのに、気づけば彼女のほうがぼくを求めている。そんな変化が、静かな事務室をさらに熱くしていく。

「河島くん……」

「律子」

「もう、そんな顔しないで」

言葉とは裏腹に、彼女は離れようとしなかった。むしろ、ぼくの呼びかけに応えるように、肩を寄せてくる。さっきまでの厳しさが嘘のようだった。

その夜、ぼくたちは終電ぎりぎりまで、誰もいない職場で向き合い続けた。静まり返った図書館の中で、二人だけの呼吸が何度も重なる。壁越しに聞こえるのは、遠くの車の音だけ。

「律子、また会いたい」

「……ええ」

短い返事だったのに、そこには確かな温度があった。

帰るころには、二人とも慌てて服を整えるしかなかった。髪は少し乱れ、顔にはまだ熱が残っている。駅へ向かう道を並んで走りながら、ぼくは何度も横目で彼女を見た。

普段は職場で誰よりも厳しく、私語ひとつにも目を光らせていた律子が、最後には人目も気にせずぼくに抱きつき、軽く口づけまでして、反対方向のホームへ駆けていく。

その背中が見えなくなるまで、ぼくはしばらく動けなかった。

静かな図書館で始まった、あまりにも熱い一夜。厳格な上司と、少しだけ気の緩んだ部下。その距離は、あの夜を境に、もう元には戻らなかった。

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