私は浅川里奈――もちろん本名ではない。地方の家を出て、東京の大学で英文を学んでいた。女子高育ちで、男の子とまともに付き合ったこともなかったくせに、性的なことへの好奇心だけは妙に強かった。
大学一年の夏、サークルの先輩だった青山さんと付き合いはじめた。初めての相手も、彼だった。あの頃の私は、恋人ができた喜びと、知らない世界に足を踏み入れた高揚感でいっぱいだった。
けれど、現実は甘くない。交際が始まると出費は増え、気づけば学生ローンの返済が重くのしかかっていた。学費の足しにするはずだった借金は、むしろ私を追い詰めた。迷った末に選んだのが、ソープランドでのアルバイトだった。
日曜日に講習と写真撮影を済ませ、水曜日の午後、私は初めて客を取ることになった。午前授業だけの日で、最寄り駅まで迎えの車が来た。店に着いたのは一時半すぎ。外はまだ明るかったのに、私の胸の中は夕暮れみたいに重かった。
店長は私を見ると、営業スマイルを浮かべた。
「浅川さん、いえ、お店では井上清華さんでしたね。月曜はホームページ用の写真確認、ありがとうございました」
私は小さくうなずいた。あの写真なら、顔ははっきり分からない。そう自分に言い聞かせていた。
「昨夜は眠れましたか」
「あまり……」
「初日はだいたいそうです。今日は問い合わせが多くて、三人の予約が入っています」
思わず声が出た。
「三人もですか」
「一人目は十四時、二人目は十六時半、三人目は十九時の予定です。二十一時すぎには終わるでしょう」
私は、ただ立っているだけで足が少し震えていた。
「最初のお客様は、どんな方なんですか」
「常連さんです。六十代の方ですね。年のわりに若く見えますし、月に二、三回来て、毎回三回戦までされます。気に入られれば、本指名もあるでしょう」
本指名。まだ実感のないその言葉が、妙に生々しく響いた。
「それでは更衣室で着替えて、部屋の支度をお願いします。今日はマネージャーが付きますが、次回からはボーイが手伝います」
私は持ってきた紺色のミニワンピースを見せた。店長は「それで大丈夫です」と言い、接客用の下着に着替えるよう指示した。ミュールも忘れていなかったので、ひとまずは合格らしい。
控え室には、すでに三人の女性がいた。マネージャーが私を紹介すると、彼女たちは軽く会釈してくれた。
「今日からお世話になります、井上清華です。よろしくお願いします」
声は思ったよりも落ち着いていた。けれど、心臓はずっと速く打っていた。
着替えを済ませ、荷物をロッカーにしまい、小さなバッグだけ持ってマネージャーと個室へ向かった。階段を上がる間、胸の鼓動は耳のすぐそばで鳴っているみたいだった。
ベッドにバスタオルを敷き、枕にもタオルを巻き、風呂上がりに足を拭くためのタオルも置く。部屋の準備は、講習で習った通りに進めた。ひとつひとつの動作に集中していると、少しだけ怖さが薄れる。そんな気がした。
控え室に戻ると、さっきまでの会話は消えていて、空気が妙に静かだった。誰も無駄なことを言わない。その沈黙が、かえって私の緊張を際立たせた。
しばらくしてマネージャーが顔を出した。
「清華さん、お願いします」
「はい」
私は立ち上がり、階段の下で待った。
やがて案内されてきたのは、脂ぎった顔をした小太りの男だった。渡辺さん、そう呼ばれていた。
正直、最初の瞬間は目の前が少し暗くなった。心の中で「この人なの……」とつぶやいたのを、私は今でもはっきり覚えている。
それでも、私は笑顔を作った。
「ご指名ありがとうございます。井上清華と申します。本日はよろしくお願いいたします」
腕を組んで階段を上がるあいだ、渡辺さんは遠慮なく私の身体に触れてきた。軽い調子で「今日は楽しませてもらうよ」と言う。その声は妙に慣れていて、私はますます緊張した。
個室に入ると、まずベッドに座ってもらい、私は正座して深く頭を下げた。
「本日はご指名ありがとうございます。はじめてで不慣れなところもありますが、一生懸命お相手します。どうぞよろしくお願いいたします」
渡辺さんは、私の顔をじっと見てから、ふっと口元をゆるめた。
「清華ちゃんって呼んでいいかな」
「はい、清華でお願いします」
「そうか。じゃあ、ここに座って」
言われるまま隣に座り、習った通りに軽く口づけした。すると相手はすぐに深く返してきた。逃げ場のない距離。慣れない舌の感触。私は息を飲みながら、それでも必死に応じた。
「ホームページでは顔がよく分からなかったけど、思ったより可愛いね」
「そうですか……ありがとうございます」
私は少し視線をそらしながら、思い切って自分からも深くキスをしてみた。
その瞬間、彼の手が服の上から胸に触れた。私はびくりと肩を震わせた。
「大きい胸だな。何カップあるの」
「Fです」
「胸の大きい子、好きなんだよ」
会話は他愛ないようでいて、ひとつひとつが妙に私の体温を上げていく。彼は仕事のこと、大学のこと、留学の希望まで、まるで昔からの知り合いみたいに聞いてきた。私は英文科で学んでいること、留学したい気持ちはあるけれど学費の負担が重いことを、少しずつ話した。
「学費のために、この仕事を始めたのか」
「はい……まずは自分で払わないといけなくて」
「大変だね」
その声は、さっきまでより少しだけ柔らかかった。
やがて彼は、私の過去についても聞いてきた。男性経験が一人だけだとプロフィールに書かれていたこと、最初はいつだったのか。私は青山さんの名前を出し、大学一年のときだったと答えた。
「じゃあ、私が二人目なんだね。大人のことは、これから教えてあげるよ」
その言葉に、胸の奥がひやりとした。なのに、身体はもう別の反応を始めていた。私は自分でも驚くほど、彼の手や唇に意識を奪われていた。
彼が服を脱ぎはじめると、私は指示どおりにジャケット、ズボン、シャツ、靴下を順に片づけた。次に私の番になる。背中のチャックを下ろしてもらい、ワンピースを脱がされると、ブラの上から胸を揉まれた。
そのとき、頭のどこかで「私は今、何をしているんだろう」と思った。でも、もう後戻りはできない。そう思った瞬間、身体の力が少し抜けた。
ブラのホックが外され、素肌が空気に触れる。あまりの恥ずかしさに声が漏れた。
「きれいな身体だ。若い女の子の身体はいいね」
彼は乳首ではなく、その周りをゆっくりと指でなぞった。首筋に舌を這わせながら、胸を揉み、じわじわと感覚を煽ってくる。私は戸惑いながらも、熱が広がっていくのを止められなかった。
「ベッドに横になりなさい」
仰向けになった私の脚は大きく開かれ、ストッキングや下着が外されていく。恥ずかしさで閉じようとすると、彼は「きれいだよ」と低く言った。その一言が、変に心に残った。
彼の身体が私の上に重なり、キスはさらに深くなる。胸を揉まれ、乳首のまわりを丁寧に刺激されるたび、知らない波が体内を走った。青山さんとのときには感じたことのない、もっと鈍くて、もっと強い快感だった。
私は思わず声を漏らし、身体を反らせてしまった。
彼は私の反応を見逃さない。太腿の内側を舌先でなぞり、さらに下へと触れてくる。私は恥ずかしさと熱っぽさのあいだで、頭がぼんやりしていった。
やがて彼が「そろそろ入れるよ」と言ったとき、私はもう、逃げるより受け入れるほうが早かった。初めての感覚は痛みよりも圧倒感に近かった。深く、重く、身体の奥が満たされていく。
私は何度も声を上げた。自分のものとは思えないほど、甘く、切羽詰まった声だった。彼は私の腰を支えながら、リズムを変え、時にゆっくり、時に激しく動いた。私はそのたびに全身を揺さぶられ、思考が薄れていくのを感じた。
そして、ふたり同時に頂点へ達した。私は息を切らしながら、ただ天井を見ていた。初めての出来事に、身体の奥がまだ震えていた。
彼は私を抱きしめながら、「よかったよ」と言った。私はうまく返事ができなかった。満足感とショックが、同じ場所に残っていたからだ。
彼が横になったあと、私はティッシュを取り、こぼれたものを拭き取った。手早く片づけながらも、心はどこか遠くにあった。
「お掃除をさせていただきますね」
そう言って、私は次の準備に移った。講習で習った通り、椅子を使うプレイの支度をし、ローションを用意し、タオルを温めた。身体を動かしているあいだは、考えすぎなくて済む。
彼を椅子に座らせると、私は背中から身体を寄せ、胸や身体を使って滑らせるように動いた。ローションの感触は冷たく、すぐに熱でとけていく。慣れない手つきでも、彼は楽しそうにしていた。
そのあと風呂場へ移り、湯気の中で身体を洗い合った。私は膝をつき、上目づかいで彼の様子を見ながら口を使ったり、胸を押し当てたりした。彼は私の反応を面白がるように、何度も「気持ちいい」と言った。
マットの上では、さらにいくつもの体勢を試した。うつ伏せ、仰向け、横向き。身体を密着させるたび、私は自分の中のどこかが少しずつ麻痺していくような感覚を覚えた。
やがて再び彼が私の上に重なり、私は自分からも腰を動かした。さっきより身体が敏感になっていて、少しの刺激でも声が出る。気づけば、私はまた強く達していた。
「またイッたのか」
彼の声に、私はただうなずくしかなかった。
シャワーでローションを流し、精液をきれいにし、マットを片づける。作業としては淡々としているのに、頭の中ではさっきまでの感覚がまだ渦を巻いていた。
お風呂から上がると、私は彼の身体をタオルで拭き、腰に巻いてあげた。自分もキャミソールに着替え、麦茶を用意する。少し落ち着いた空気のなかで、ようやく私は呼吸を整えることができた。
彼は仕事をしていたころは毎週末通っていたこと、今は月に二回ほど来ていることを話してくれた。私は彼に、彼女がいるのか、どれくらいセックスをしていないのか、そんなことをそれとなく尋ねた。会話は、さっきまでの熱を少しずつ日常へ戻していく。
「ここに来るときは、少し薬を飲んでくるんだ」
そんな話もあった。私は、彼がなぜここに来るのかを完全には理解できなかったけれど、少なくとも、ただの客ではないのかもしれないと思いはじめていた。
やがて彼は、もう一度したいと言った。私はそれを受け入れた。身体はすでに敏感になっていて、少し触れられるだけで反応してしまう。自分でも戸惑うほどだった。
その後も私たちは何度か体勢を変え、彼の身体を受け止めた。後ろを向いて重なるときの圧迫感。抱き合ったまま動くときの息苦しさ。正面から見つめ合うときの、妙に静かな緊張感。ひとつひとつが、初日の私には重すぎるほど濃かった。
私は、何度も「こんなはずじゃなかった」と思いかけて、でも最後には「もう終わる」と自分に言い聞かせた。仕事としてやるしかない。そう思うことで、どうにか立っていられた。
渡辺さんは満足げに笑い、私はその顔を見ながら、まだ完全には飲み込めていない現実を静かに受け止めていた。
初めての客は、私にとって忘れられない相手になった。怖かった。恥ずかしかった。なのに、身体は確かに反応してしまった。その事実だけが、ずっと重く胸に残った。
部屋を出るころには、外の光はもう少し柔らかくなっていた。私は次の予約に向かう準備をしながら、これから先、自分がこの仕事をどこまで続けられるのか、まだ答えの出ない問いを抱えていた。

次の呼び出しが来るまでのあいだ、私は何度も深呼吸をした。手は少し冷たく、心臓だけがまだ落ち着かなかった。
それでも、仕事は続いていく。私の初日も、まだ半分しか終わっていなかった。