奈々がうちの仕事を手伝ってくれるようになってから、空気は少しずつ変わっていった。
独立したばかりの頃は先の見えない不安もあったけれど、知り合いづてに仕事が増え、彼女にきちんと報酬を払える見通しが立った。だからこそ、奈々はメンエスの仕事を離れ、デザインの仕事に集中することになったのだ。
基本はパソコンで完結する作業ばかりだったので、彼女は自宅や大学で仕事を進め、月に二回ほど打ち合わせのためにうちへ来る。そんな生活が始まってから、おれは「奈々が来る日」を妙に楽しみにするようになっていた。
最初は、ただ仕事がしやすい相手だと思っていた。けれど、気づけばその感情はもっとややこしいものに変わっていた。
「ここの配色、もう少し彩度を上げたほうがいいと思うんですけど、どうですか?」
ソファの向かいに座った奈々が、ノートパソコンの画面をこちらに向ける。今日はデニムのスカートだった。座り方によっては裾が少し上がり、無防備な白さがちらりと見える。おれは肝心の話を半分ほど聞き逃しながら、内心でひどく動揺していた。
「……翔太さん? 聞いてます?」
「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてた。色はいいと思う。もう少し全体のトーンを落としてみようか」
「大丈夫ですか? 最近、ちゃんと休めてます?」
「まあ、少し疲れてるかもな」
奈々は小さく首をかしげた。そういう何気ない仕草が、やけに目に残る。
「彼女さんとは、会えてるんですか?」
「この前電話で終わったよ。もう別の人が好きだってさ」
笑って答えたのに、胸の奥は少しだけ痛んだ。だが、仕事に集中できると自分に言い聞かせるしかなかった。
「そうだったんですね……変なこと聞いちゃって、ごめんなさい」
「気にしなくていいよ。それより、この案でクライアントに当たってみる」
奈々はまだ若いのに、視点がとても柔らかい。相手の意図をくみ取りながら、でも自分の感覚もきちんと残す。そのバランスがうまくて、一緒に仕事をしていると面白かった。
もちろん、面白いだけでは済まない瞬間もあった。彼女がスカートで来る日は、ソファに座るたびに目のやり場に困る。前に泊まった夜のこともあって、奈々にはどこか無防備なところがあるのだろうと心配になる一方で、正直なところ、おれはその無防備さに救われてもいた。
そんな日々が三か月ほど続き、気づけば年末が近づいていた。
おれは年内で今の事務所を完全に離れ、自分の仕事へ本格的に集中するつもりだった。引き継ぎや整理を淡々と進めながらも、内心は妙に落ち着かなかった。彼女とはもう終わっている。奈々には手を出せない立場でもある。なのに、会えば笑ってしまうし、来るたびに気持ちは揺れる。
しかも、メンエス通いまで増えていた。自分でもどうかしていると思う。けれど、抑え込もうとするほど余計に意識してしまうものだった。
十二月の中旬、奈々がまた作業に来た。今日は膝上くらいのフレアスカートに、少し大きめのニット。冬らしく柔らかい雰囲気で、やたらと可愛く見えた。
その日は、仕事が終わったあとに軽く忘年会をしようと前から約束していた。
「早くご飯行きたいです。楽しみです」
奈々は素直に笑った。
家の近くの、小さくて洒落たイタリアンに入る。ワインを少し飲みながら、仕事の話や最近見た映画の話をしているうちに、空気はだんだんゆるんでいった。奈々もかなり酔っている様子だった。
「奈々、来春には卒業だろ。今までの感じなら、古巣の〇〇事務所に推薦もできるけど、どうだ?」
すると、彼女は呆れた顔でため息をついた。
「……はぁ」
そしてグラスのワインを一気に飲み干す。
「今日は忘年会ですよね。私も酔ってるし、無礼講ってことでいいですか?」
「お、おう」
「じゃあ、本音で話すって約束してください」
「わ、わかった」
奈々は少し身を乗り出した。
「私は、翔太さんのお仕事を手伝わせてもらって、デザインの考え方とか、お客さんに寄り添う姿勢とか、本当に尊敬してます。少しでも役に立ちたくて、頑張ってきました」
「十分役に立ってるよ。センスもいいし、方向性も近いから、話していてすごく楽しい。打ち合わせするたびに、仕上がりが良くなっていくのが嬉しいんだ」
「じゃあ、なんで〇〇事務所を紹介するなんて言うんですか。翔太さんのところだって人手が足りてないですよね。私じゃ力不足だと思ってるんですか?」
「いや、そうじゃない。ほんとはうちに来てほしい。でも、〇〇事務所は大きいし、おれのところなんて就職したいと思わないかなって……」
「私は、翔太さんのところがいいです」
その言い方に、思わず息が詰まった。
「ほかにも言いたいことがあるんですけど……ここじゃ無理です。おうち、行ってもいいですか?」
酔いもあって、奈々の声は少し震えていた。けれど、その震えは迷いというより、覚悟に近かった。
会計を済ませ、二人で夜道を歩く。距離は短いのに、やけに長く感じる。無言のまま、靴音だけが小さく響いた。
家に着いて、ようやく奈々が口を開いた。
「夜風に当たったら、少し酔いが覚めてきました。変なこと言ってたら、ごめんなさい」
「全然。むしろ嬉しかった」
「……じゃあ、聞きますね。私のこと、どう思ってます?」
最初は仕事のことを答えようとした。けれど、もう逃げるのは無理だった。
「一緒に仕事していて楽しい。もっと良いものを作れると思ってる。でも、それだけじゃない。正直、めちゃくちゃタイプだし、女として見てないわけがない」
奈々は黙っていた。少し俯いたまま、長い沈黙が落ちる。
「嬉しいです」
やっと聞こえた声は、予想以上に小さかった。
「でも、イヤです」
「え?」
まったく想像していなかった返事に、間抜けな声が出た。
「メンエスで抜いてもらってる変態さんはイヤです。翔太さん、私が辞めてから何回お店に行きました?」
「えっと……二回くらいかな」
「本当ですか?」
「……」
「八回くらい行ってません? 受付の人に聞いたら教えてくれました」
あの野郎、守秘義務はどうした。心の中で悪態をついても、もう遅い。
「そのうち何回、抜いてもらいました?」
「……八回」
「もう! メンエスでの話、上手くなりすぎです!」
そう言いながら、奈々はおれの頬をつねった。怒っているのに、どこか可愛らしい。
「あと、鈍感すぎます。私がどれだけ誘ってたと思うんですか」
「誘ってた?」
「ノーブラでTシャツ一枚で一緒に寝てほしいなんて、普通は頼みません」
「……まあ、確かに」
「お風呂に入る前、下着姿で少し待ってたのも気づいてませんでした?」
「え、あれも?」
「私、そんなに寝相悪くないです」
「夜中にトイレから戻った時のことは?」
「あんなにライトで照らして見られるなんて思いませんでした。すごく恥ずかしかったです」
おれは記憶をたどる。たしかに、あの夜は何もかもが曖昧だった。けれど、今になって思えば、奈々のほうもかなり近づいてきていたのだ。
「そのあとも、全然寝られなくなったのに、翔太さんはそのまま寝ちゃうし」
「だって、働かせる条件で抱くみたいになったら嫌だったんだよ」
「私も同じです。お礼が身体みたいになるのは嫌だったから、自分から言えなかったんです」
ここで、奈々は一度目をそらした。
「……朝も起きてました? ノーブラに気づいて、触ってた時も」
「え、そんなことしてたの?」
「してましたよ! 全然我慢してないじゃないですか!」
そのあとも、ソファでの仕草や、ふとした瞬間の視線の意味を、二人でひとつずつ確かめるように話した。パンチラのこと、胸元のこと、わざとだったのか無意識だったのか。問い詰めるほど、奈々の顔は赤くなっていく。
「そんなに見えてました……? わざとだったのは、泊まった時だけです……」
「全然、無防備な子じゃん」
「もう! それは忘れてください!」
奈々はむくれたあと、急に真顔になった。
「とにかく、もうメンエスには行かないでください」
その言葉のあと、彼女は迷いなくキスをしてきた。柔らかくて、熱があって、驚くほど真っ直ぐだった。
おれは彼女を抱きしめ、ゆっくりと唇を重ねた。数か月、無理に押し込めていた気持ちが、そこで一気にほどけていく。
「……気持ちいい。翔太さん、キス上手すぎ」
「奈々の唇も、すごく気持ちいい」
ソファの上で抱き合っているうちに、彼女の力が抜けていく。そのまま身体を倒すようにして、二人はさらに近づいた。
奈々の頬は熱く、目は潤んでいた。おれももう我慢できなかった。胸元に触れると、小さく息を飲む声が返ってくる。ひとつひとつ確かめるように、距離を詰めていった。
「その前に、あれやってくれません?」
「あれって?」
「色当てるやつ」
奈々は悪戯っぽく笑う。
「見つめられて想像されてると思うと、なんか変な感じで……ハマっちゃいました」
「変態になってきたな」
「翔太さんにだけです」
そう言われると、もう逃げられない。奈々の顔を見つめながら、頭の中でゆっくりとその姿をほどいていく。彼女は少し息をのんで、答えを待っていた。
「今日は……薄めの紫かな」
「うそ。すごい」
「当たり?」
「自分で確認してください」
その一言で、場の空気がさらに熱を帯びた。
スカートを少し持ち上げると、淡い紫の布が見えた。彼女が選んだ色は、想像していたよりずっと繊細で、妙に似合っていた。上も同じ系統で揃えていて、全体の印象は驚くほど可憐だった。
「……似合ってる。すごく可愛い」
「翔太さんが年上だから、少し背伸びして買ったんです。前のも、初めて履いたんですよ。スースーして恥ずかしかったです」
「ほんとに似合ってる」
「嬉しい……」
そのまま首筋にキスを落としていくと、奈々の呼吸が少しずつ乱れていく。彼女は恥ずかしそうにしながらも、どこか嬉しそうだった。
やがて彼女は自分から、こちらの服に手を伸ばした。おれもシャツを脱ぎ、互いに距離を縮めていく。どちらが先に触れたのか、もう曖昧だ。ただ、もう止まれなかった。
奈々の反応は素直だった。触れるたびに小さく震え、熱を帯びた声が漏れる。おれもまた、彼女の反応に煽られていく。
「……初めて、こんなふうになりました」
「俺もだよ」
その言葉に、奈々は少しだけ笑った。
ベッドに移ると、夜はさらに深くなった。互いに確かめ合うように距離を縮め、ぎこちないところも、ためらいも、全部ひっくるめて受け止めていく。奈々は思っていたよりずっと大胆で、でも本質は驚くほど真面目だった。
「ちゃんと、私を見てくださいね」
その一言が、胸に残った。
おれたちは、仕事の相手として出会い、何度も言葉を交わし、少しずつ距離を縮めてきた。だからこそ、この夜は軽い一度きりの勢いではなく、長い時間をかけて積み重なった気持ちの続きだったのだと思う。
翌朝、奈々は少し照れた顔で笑った。
「昨日のこと、夢みたいです」
「夢じゃないよ」
「じゃあ、これからも一緒にいられますか」
その問いに、今度は迷わなかった。
仕事も、生活も、気持ちも。簡単ではないけれど、二人なら少しずつ形にできる気がした。
おれは奈々の手を握り返し、静かにうなずいた。
それからしばらくして、奈々は正式にうちの仕事を手伝うようになった。報酬は、月10日出勤で手取り15万円前後を目安にし、待機時間が長い日や案件の波がある月は歩合率を調整する。たとえば、固定10万円に加えて制作本数に応じて5万円が上乗せされる形なら、安定もしやすい。逆に、繁忙期に月15日ほど稼働できるなら、手取りは20万円台まで伸びることもある。
ただし、こうした働き方には前提がある。年齢確認は必須で、本人確認書類の確認を省略してはいけない。さらに、報酬を理由にした身体的接触の強要、未成年の関与、無断撮影、守秘義務違反は明確に禁止されるべきだ。仕事の関係が近いからこそ、線引きは最初に決めておく必要がある。
奈々は今も、あの頃と同じように素直で、時々ひどく無防備だ。けれど、もう以前のように心配ばかりすることはない。おれたちは、ちゃんと相手を見ながら進める関係になったのだから。
あの冬の夜を思い出すたび、少しだけ胸が熱くなる。恋は、いつも分かりやすい形で始まるわけじゃない。仕事の打ち合わせみたいな顔をして、いつのまにか心の奥に入り込んでくることもある。
奈々と出会えたことは、今でも不思議なくらい鮮明だ。そして、あのとき勇気を出して本音を言葉にしていなければ、まったく違う未来になっていたのだろう。
今はただ、隣にいる彼女の温度を、静かに大切にしている。