詩音と再会してから、一週間が過ぎていた。
あの夜のことは、まだ体の奥に残っている。言葉にすれば簡単なのに、思い返すたびに胸のあたりが妙にざわつく。大学の構内を歩いていても、講義を受けていても、ふとした拍子に詩音の横顔が浮かんだ。
そして今日は、また三人で会うことになっていた。
待ち合わせ場所に着くと、先にいたのはミユだった。いつもより少しだけ落ち着かない様子で、手元のスマホを見たり、周囲を見回したりしている。俺に気づくと、ほっとしたように小さく息を吐いた。
「なんか……緊張するなぁ……」
その声は、いつもより少しだけ細かった。
俺は苦笑して、肩の力を抜くように言った。
「はは……同い年だから、そんなに畏まらなくていいよ……」
言いながらも、自分自身がまったく落ち着いていないのが分かる。詩音の名前を聞くだけで、頭のどこかが熱くなる。平静を装うのは、思っているより難しかった。
少し遅れて、ユウキが姿を見せた。
相変わらず整った立ち姿で、こちらへ向かってくるだけで空気が変わる。背筋が伸びていて、視線もまっすぐだ。けれど、その表情の端には、どこか面白がっているような色もあった。
「お姉様に失礼ないようにお願いしますね……」
さらりと言われて、俺は思わず目を瞬いた。
「え、俺が?」
「ええ。あなたは何かと油断しそうですから」
ミユが横で小さく吹き出す。ユウキは真顔のままなのに、言葉だけが妙に鋭い。からかわれているのは分かるが、反論しようにも、うまく返せない。
そんなやり取りをしていると、少し離れたところから詩音が現れた。
一瞬で、空気が変わる。
彼女は以前と同じように落ち着いた歩幅で近づいてきたが、今日はどこか慎重だった。視線はまっすぐなのに、ほんのわずかだけ迷いが混じっている。あの詩音が、だ。
「……待たせた?」
その一言だけで、胸が変に鳴った。
「いや、今来たところ」
ありきたりな返事しかできない自分が情けない。けれど詩音は、ふっと目を細めた。
「そう。ならよかった」
ミユが二人の顔を交互に見て、居心地悪そうに笑う。
「なんか、ほんとに変な感じだね……」
「変?」
詩音が首をかしげる。
「ううん、悪い意味じゃなくて。前より、ちゃんと“会ってる”って感じがする」
その言葉に、詩音は少しだけ黙った。ほんの一拍、沈黙が落ちる。その短さが、かえって妙に長く感じられた。
「……そうかもね」
詩音はそう言って、わずかに視線を逸らした。
俺はその仕草を見逃さなかった。強い人だと思っていた。実際、そうだ。けれど、強いからこそ、こういう小さな揺れがやけに目につく。あの夜からずっと、彼女の中にも何かが残っているのだろう。
ユウキが静かに言った。
「では、移動しましょうか。ここでは少し目立ちます」
その提案に、全員がうなずいた。
向かった先は、大学近くの落ち着いたカフェだった。窓際の席に四人で座ると、外のざわめきが少し遠くなる。店内にはコーヒーの香りが漂っていて、照明も柔らかい。会話を始めるには、ちょうどいい場所だった。
だが、誰もすぐには話し出さなかった。
カップに触れる指先、メニューをめくる音、椅子のきしむ小さな響き。そういう些細な音だけが、妙に鮮明に耳に残る。
最初に口を開いたのは、やはり詩音だった。
「先週のこと、まだ整理できてない」
その言葉は、静かなのに重かった。
ミユが目を丸くする。ユウキは表情を変えず、ただ続きを待った。俺も、自然と背筋を伸ばしていた。
「あの時、私は……少し焦っていたと思う」
詩音は、テーブルの上で指を組み直した。
「ああいう形で再会するつもりはなかったし、あなたがそこにいることも、正直かなり意外だった。だから、うまく言葉が出なかった」
俺は何も言えなかった。詩音が自分の動揺を、ここまで率直に認めるのは珍しい。いや、ほとんど記憶にない。
「でも、逃げたくはなかった」
その一言で、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ミユがそっと息をのむ。ユウキの視線も、わずかに柔らかくなった。
詩音は続ける。
「だから今日は、ちゃんと話したいと思って来た。曖昧なままにしたくないことが、いくつかあるから」
店の外を車が通り過ぎる。窓ガラスが淡く震えた。
俺は、詩音の顔を見た。綺麗な人だと思う。今さらそんなことを言うまでもない。でも、綺麗さの奥にあるものは、見れば見るほど簡単じゃない。近づけば近づくほど、ますます分からなくなる。分からないのに、目が離せない。
「……俺も、ちゃんと聞きたい」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。
詩音は小さくうなずいた。
「ありがとう」
その返事は短いのに、妙にあたたかかった。

ミユは、なんとか場を和らげようとしたのか、少し明るい声を出した。
「でも、こうして普通に話せるのは、ちょっと安心したかも。前は、もっとこう……近づいたら壊れそうな感じだったし」
「壊れそう?」
詩音が薄く笑う。
「うん。近寄ると、すごく危ない感じ」
「それは褒めてるの?」
「たぶん、半分くらい」
そのやり取りに、俺はようやく少しだけ息ができた。詩音も、ミユも、完全に張り詰めているわけではない。ぎこちなさはある。でも、そのぎこちなさの中に、ちゃんと人の温度があった。
ユウキが静かにカップを置く。
「では、順番に整理しましょうか。感情のままに動くと、誤解が増えます」
「なんでお前だけそんなに冷静なんだよ……」
俺がぼそっと言うと、ユウキは少しだけ目を細めた。
「冷静に見えるだけです。内心は、それなりに面倒です」
その返しは妙に真に迫っていて、かえって笑えなかった。
詩音はそんな二人を見て、ほんのわずかに肩の力を抜いたようだった。ほんの少しだけ、表情がやわらぐ。
「……あなたたちといると、変に安心する」
その言葉に、ミユがぱっと顔を上げた。
「ほんと?」
「ええ。少なくとも、気を張りっぱなしではいられない」
「それ、褒め言葉として受け取っていいのかな」
「好きに受け取って」
詩音はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を見た瞬間、俺はなぜか胸の奥が締めつけられた。ああ、この人はやっぱり簡単じゃない。近づいたと思ったら、すぐにまた遠くなる。けれど、その距離の揺れすら、今の俺にはたまらなく生々しかった。
話し合いは、ゆっくりと進んでいった。
詩音が何を考えていたのか。俺がどこまで踏み込んでよかったのか。ミユがその場で感じていた不安。ユウキがどこまで状況を見抜いていたのか。ひとつひとつ確認するように言葉を重ねるたび、曖昧だった輪郭が少しずつ形を持ちはじめる。
けれど、すべてが綺麗に片づくわけではない。
詩音は時折、言い淀んだ。ミユは遠慮がちに視線を落とした。ユウキは必要以上に踏み込まないようにしているのが分かった。俺もまた、言いたいことの半分も口にできていない。
それでも、何かが確かに変わっていた。
再会したときの、あの張りつめた空気はもうない。代わりに残ったのは、少し不器用で、それでも逃げ切れない気持ちだった。
詩音が最後に、静かに言った。
「私は、まだ答えを出せていない。でも、ちゃんと向き合うつもりはある」
その言葉を聞いて、俺はようやく、今日ここに来た意味を理解した気がした。
結果はまだ先だ。けれど、先送りにしていたものが、ようやく動き始めた。そんな手応えがあった。
カフェを出るころには、空はすっかり暗くなっていた。街灯の光が歩道に長く伸び、四人の影を淡く重ねる。
詩音は立ち止まり、少しだけ振り返った。
「また連絡する」
短い言葉だった。けれど、その短さが妙に鮮明だった。
「うん」
俺がうなずくと、詩音は小さく目を伏せた。
ミユはその背中を見送りながら、ほっとしたように息をつく。ユウキは何も言わず、ただ静かに夜の向こうを見ていた。
俺だけが、まだ少しだけ熱を持ったまま立ち尽くしていた。
詩音と再会してからの一週間は、ただ過ぎたわけじゃない。何も起きていないようで、確かに何かが進んでいた。そう思えるくらいには、今日の会話は深く残った。
次に会うとき、彼女はどんな顔をしているのだろう。
その答えはまだない。だが、もう知らないままではいられない気がしていた。