大手企業に入ってから、私は仕事のことばかり考えて生きてきた。学生時代から付き合っていた彼からプロポーズを受けた夜も、胸の奥ではうれしさより先に、まだやり切れていない仕事の山がちらついていた。
結局、私は結婚よりもキャリアを選んだ。周囲の視線は痛かったけれど、男性に負けたくないという意地もあったし、実際に仕事は面白かった。気づけば部長になり、会議室の空気を動かす側に立っていた。けれど、昇進と引き換えに失ったものも少なくない。異性との距離感には、必要以上に慎重になった。たった一度の軽い噂で失脚する同僚を何人も見てきたからだ。女だからと甘く見られたくなくて、私は笑顔の裏で、誰よりも厳しく自分を律した。
そうしているうちに、恋人のいない年月はあっという間に積み重なった。最後に誰かとちゃんと向き合ってから、もう二十年近い。鏡の前で装いを整えるたび、誰に見せるでもない下着にまで気を配る自分が少し滑稽に思える日もある。それでも、好きな服を選び、肌に合うものを身につける時間だけは、私が私でいられる小さな儀式だった。
大きな案件のイベントがひと区切りつき、久しぶりに定時で帰れる週末が来た。私は梅田の百貨店へ向かった。欲しかったのは、派手なものではない。けれど、袖を通したときに気分が上がる服。誰に褒められなくても、自分が少し好きになれる服だった。
買い物を終えて駅へ戻るころには、空気がやわらいでいた。私は一人暮らしのマンションへ向かう道すがら、いつもの居酒屋に足を向けた。そこは、十五歳ほど年上のご夫婦が切り盛りしている店で、もう十年近く通っている。月の半分くらいは、夕飯を食べるような感覚で顔を出していた。気負わず話せる相手がいるだけで、夜の寂しさは少し薄まる。
ご主人は無口そうに見えて、実は人の話をよく覚えている。奥さんの嘉子さんは、明るくて、少しおせっかいで、それでいて妙に勘がいい。私は仕事の愚痴も、独り身の気楽さも、たまにこぼれる寂しさも、あの店では隠さず話していた。するとお二人も、結婚に至るまでのことや、店を始めた経緯をぽつぽつと語ってくれる。長く連れ添っているのに、今も一緒にいたいと思える。私とはずいぶん違う価値観だったが、その違いが不思議と心地よかった。
その日は、いつもより酒が回るのが早かった。イベントが終わった安堵もあったのだろう。気づけば頬が熱く、足元も少し心許ない。嘉子さんが私の顔を見て、すぐに言った。
「中野さん、今日はだいぶ飲んだね。帰るのは危ないから、泊まっていきなさい」
ご主人も頷いた。
「そうしなさい。無理して帰ることはないよ」
私は、少し笑って頭を下げた。
「すみません。歩けそうにないので、甘えてもいいですか」
片付けが終わるまで、私はカウンターに伏せるようにして眠気をごまかした。店の灯りが少しずつ落ち、最後のグラスが棚に戻る音が遠くなる。やがて二階の住まいへ案内され、私はそのまま奥の部屋へ通された。
「僕はリビングのソファーで寝るから。嘉子はベッドを使いなさい」
ご主人のその一言に、嘉子さんは私の肩を軽く叩いて笑った。
「信子さん、シャワー浴びる?」
「いいんですか。着替えがなくて……」
「新しい下着があるから、それを履いて。ちょっとだけ遊び心のあるやつだけど」
酔っていた私は、断る理由をうまく見つけられなかった。
「お願いします」
嘉子さんは私を浴室へ連れていき、椅子に座らせると、まず丁寧に化粧を落としてくれた。冷たい水と石けんの匂いが、酒で曇った頭を少しずつ澄ませていく。彼女は手際よくタオルに泡を含ませ、私の髪から首筋、肩、背中へとやさしく洗い流していった。
「信子さんって、服も下着もちゃんと選んでるのね。見えないところまで気を遣う人は、やっぱり素敵だわ」
そう言われて、私は少しだけ頬が熱くなった。普段なら誰にも見せない部分まで気を配っていることを、こんなふうに言い当てられるとは思わなかった。
「でも、こんなに綺麗にしてるのに、彼氏がいないなんて不思議ね」
その言葉に、私は小さく笑うしかなかった。長いあいだ、誰かに触れられることを避けてきたのは自分だ。仕事を守るために、傷つかないために、私はずっと距離を置いてきた。
湯気の立つ浴室で、嘉子さんは私の身体をゆっくりと洗い、私はその世話を受けるまま、力を抜いていた。酔いと安心感が混ざり合い、思考の輪郭が少しずつほどけていく。人の手にこんなふうに扱われるのは、何年ぶりだろう。優しくされることに、こんなにも胸がざわつくものだとは知らなかった。
やがて私はバスタオルで包まれ、用意された下着を受け取った。赤みのある小さなそれは、普段の私なら選ばないような、少しだけ大胆な気配をまとっていた。恥ずかしさはあったが、同時に、誰かに見つめられることを忘れていた自分に気づかされる。
ベッドに入るころには、酔いはまだ残っていたが、身体はすっかり温まっていた。布団の中で目を閉じると、リビングのほうでご主人が動く気配がする。嘉子さんもそちらへ行ったらしい。壁越しに聞こえる小さな話し声は、夫婦というより、長い時間を共有してきた二人だけが持つ、静かな呼吸のようだった。
私は最初、ただ眠ろうとしていた。けれど、耳を澄ませるうちに、二人の間にある親密さが、妙に胸に残った。長く一緒にいるからこそ保てる距離。好きだからこそ、遠慮なく踏み込める距離。そのどちらも、私にはほとんど縁のないものだった。
しばらくして、扉が開く音がした。嘉子さんが戻ってきたのだろう。布団がめくられ、私は眠気の奥で、そっと名前を呼ばれた。
「信子さん、起きてるでしょう。こっちにおいで」
私は半ば夢の中のような心地で身を起こし、リビングへ連れ出された。そこでは、さっきまでとは違う空気が流れていた。嘉子さんの表情はやわらかく、けれどどこか挑むようでもある。私はその視線を受け止めるだけで精一杯だった。
「あのね、信子さん。あなた、ずっと我慢してきたでしょう」
その一言が、胸の奥に静かに落ちた。誰にも言われたことのない言葉だった。私は何も返せず、ただ立ち尽くした。
嘉子さんは私の手を取り、そっと指先を絡めた。温かい。驚くほど自然な触れ方だった。私はそのぬくもりに、抵抗する理由を失っていく。長いあいだ固く閉じていたものが、少しずつほぐれていく感覚があった。
ご主人は少し離れた場所から、黙ってこちらを見ていた。けれど、その沈黙は冷たいものではない。むしろ、長年連れ添った人間だけが持つ落ち着きがあった。私はその視線に見守られているような、不思議な安心を覚えた。
嘉子さんは私の頬に触れ、髪をかき上げた。
「綺麗にしてるのに、ひとりで抱え込みすぎよ。もっと楽になっていいの」
その言葉に、私は堰を切ったように息を吐いた。張りつめていたものが、少しずつほどけていく。仕事でも、恋愛でも、私はずっと強くあろうとしすぎていたのかもしれない。誰にも頼らず、誰にも弱みを見せず、そのまま年を重ねてきた。
その夜、私は嘉子さんとご主人のあいだで、ただ一人の女として扱われた。そこには、職場で求められる厳しさも、肩書きもない。あるのは、見つめられることの恥ずかしさと、受け入れられることの熱だけだった。
朝が近づくころ、私はようやく、自分がどれほど長いあいだ孤独を抱えていたのかを知った。仕事を選んだことを後悔していたわけではない。けれど、その代わりに置き去りにしてきたものが、確かにあったのだと思う。
窓の外が白み始める。私は静かに目を閉じた。あの夫婦の暮らしぶりは、私には真似できないかもしれない。それでも、あの夜に触れたぬくもりだけは、しばらく胸から消えそうになかった。
私はずっと、仕事に勝つことばかり考えていた。けれど本当は、勝つことよりも、誰かに見つめられ、名前を呼ばれ、ひとりではないと感じることのほうが、ずっと難しくて、ずっと欲しかったのかもしれない。
そのことに気づいた朝は、少しだけやさしかった。
――終わり――