夏休みに入ってから三か月前の出来事を、私は何度も頭の中でなぞっていた。あの夜、義母の美咲さんと境界を越えてしまったこと。もう二度と戻れないのだと分かっていながら、日常は意外なほど静かに続いていた。
私の名前は悠斗。十八歳になったばかりで、実家を離れ、義母の美咲さんと二人暮らしに近い形で暮らしている。美咲さんは三十五歳。父が再婚してから五年、家の中では穏やかで、少し距離のある大人として振る舞っていた。だからこそ、あの夜の熱が今も胸の奥で消えない。
「悠斗、今日は遅くなるの?」
朝、キッチンでコーヒーを淹れている美咲さんが、いつもの落ち着いた声で聞いてきた。白いブラウスに細身のスカート。何気ない姿なのに、視線を向けるたびに心臓が跳ねる。
「友達と少し会ってくる。夕方には戻るよ」
私はできるだけ平静を装った。美咲さんは「気をつけてね」とだけ言い、洗い物に視線を落とした。その横顔を見ていると、何もなかったふりを続けることが、かえって残酷に思えた。
外は強い日差しで、アスファルトが白く光っていた。駅前のコンビニで冷たい飲み物を買い、同い年の友人たちと他愛ない話をした。受験のこと、バイトのこと、誰がどの大学を受けるか。みんなの会話はまっすぐで、軽くて、私には少し眩しかった。
その中の一人、同級生の直樹は、昔から妙に勘が鋭い。帰り際、私の顔を見て首を傾げた。
「悠斗、最近ちょっと変だぞ。寝不足か?」
「まあな。夏ってだけで疲れる」
「それ、顔に出てる。何かあったなら言えよ」
冗談めかした声だったけれど、胸の奥に小さな棘が刺さった。言えるはずがない。義母と関係を持った、なんて。そんな事実を口にした瞬間、今ある生活は全部崩れる。
家に戻ると、玄関の靴が一足分少なかった。義妹の柚葉がいない。中学二年の十四歳で、最近は塾や部活で家を空けることが多い。私はリビングを見回し、台所から漂う味噌汁の匂いに足を止めた。
「柚葉は?」
「友達の家に泊まるって連絡があったよ」
美咲さんはそう答えた。淡々としているのに、声の奥にわずかな緊張が混じっている気がした。
夕食は静かだった。焼き魚、冷ややっこ、きゅうりの浅漬け。ごく普通の食卓なのに、向かい合う美咲さんの指先ばかり見てしまう。箸を置く音がやけに大きく響いた。
「悠斗、最近、眠れてる?」
「……まあ、普通」
「無理してない?」
その一言で、胸の奥にしまっていたものが少しだけ揺れた。心配しているのか、それとも、あの夜の続きを望んでいるのか。そんなことを考える自分が卑怯で、情けなかった。
食後、私は自室にこもった。窓の外では、遠くで蝉が鳴いている。机の上には、夏期講習の案内と、友人たちからのメッセージが並んでいた。どれも現実的で、どれもまっとうだった。
そのとき、スマホが震えた。直樹からだった。
「明日、駅前の図書館に来い。資料まとめるの手伝う」
私は少し迷ってから、「分かった」と返した。勉強の約束というだけなのに、妙に救われた気がした。誰かと同じ時間を過ごすことが、こんなにも普通で、こんなにもありがたいなんて思わなかった。
翌日、図書館の冷房は強すぎて、腕に鳥肌が立った。直樹は参考書を山のように広げ、ペン先で机を叩きながら笑った。
「お前、ほんとに顔色悪いぞ。ちゃんと食ってるか?」
「食ってるよ」
「なら、別の理由だな」
そう言って彼は目を細めた。からかうようでいて、どこか本気だった。私は視線を落とし、ページをめくるふりをした。
直樹は昔から、必要以上に踏み込まない。だからこそ、安心してしまう。けれど、その距離感が今日は妙にあたたかく感じられた。
昼過ぎ、二人でコンビニの前に座り、冷えたお茶を飲んだ。車の走る音、遠くの工事の音、子どもの笑い声。夏の午後は、何もかもが少しだけ輪郭を失って見える。
「悠斗ってさ」直樹が缶を握ったまま言った。「昔から、妙に我慢するよな」
「……そうか?」
「そうだよ。誰かに頼るの、苦手だろ」
返す言葉がなかった。直樹は私の沈黙を責めず、ただ前を見た。
「俺でよければ、話くらい聞くぞ。変な意味じゃなく」
その言い方が、かえって胸に残った。私は小さく笑って、「今度な」とだけ答えた。
数日後、家の空気は少し変わった。美咲さんが私を見る時間が増えたのだ。台所で肩が触れそうになるたび、言葉の途中で息が詰まりそうになる。夜、廊下ですれ違ったときも、どちらかが先に目を逸らすようになった。
「悠斗」
ある晩、美咲さんが私の部屋の前で立ち止まった。
「少しだけ、話せる?」
私は喉の奥が乾くのを感じながら、扉を開けた。美咲さんは部屋に入らず、敷居のところで立っている。そういう距離感が、余計に胸を締めつけた。
「この前から、あなたが無理している気がして」
「別に」
「別に、じゃないでしょう」
静かな声だった。責めているのではない。ただ、見抜かれている。私は視線を床に落とした。
「あの夜のこと、なかったことにはできないよ」
その言葉に、空気が止まった。窓の外で風鈴が鳴り、薄い音だけが部屋に入ってくる。私は何も言えなかった。言えば壊れる。黙っていても壊れる。どちらを選んでも、同じだった。
美咲さんはしばらく黙ったあと、少しだけ笑った。苦い笑いだった。
「私たち、ちゃんと考えないといけないね」
その夜、私はほとんど眠れなかった。天井を見上げながら、直樹の言葉を思い出していた。頼ることが苦手な自分。誰にも話せない秘密。義母への気持ちと、普通の同級生に向ける安心感。その両方が、同じ場所でせめぎ合っていた。
翌週、学校の帰りに直樹と再び会った。駅前のベンチで、夕焼けがビルの窓を赤く染めていた。
「なあ、前に言ってた話、少しなら聞けるぞ」
私はしばらく黙っていた。直樹は急かさない。電車の通過音だけが、長く伸びる。
「家のことが、少し複雑でさ」
「うん」
「俺、誰にも言えないことを抱えてる」
直樹はそれ以上聞かなかった。ただ、缶コーヒーを私の手に押しつけた。
「じゃあ今日は、それだけでいい」
その一言で、張りつめていた何かが少し緩んだ。私は缶を握りしめ、冷たさを確かめた。人に話すだけで、こんなにも呼吸がしやすくなるのかと思った。
数日後、学校のアンケート集計が掲示された。夏休み前に行われた「相談相手に関する意識調査」で、回答者の八割が「話しやすい相手がいるだけで気持ちが軽くなる」と答えていた。数字だけ見れば単純だが、私には妙に現実的だった。誰か一人でも、安心して言葉を置ける相手がいること。それがどれほど大きいか、ようやく分かり始めていた。
家に帰ると、美咲さんは台所で夕飯の支度をしていた。私は立ち止まり、少しだけ考えたあと、声をかけた。
「……今度、ちゃんと話す」
美咲さんは包丁を置き、振り返った。
「ええ」
「逃げないようにする」
「うん」
それだけだった。長い説明も、派手な和解もない。ただ、互いに目をそらさなかった。
あの夏の出来事は、今も簡単には片づかない。義母との距離、家族としての線引き、同級生とのまっすぐな関係。そのどれもが、私にとっては初めて向き合うものだった。けれど、直樹の何気ない一言や、美咲さんの静かな視線に支えられながら、私は少しずつ、自分の足で立つ感覚を覚えていった。
夕暮れの台所で、味噌汁の湯気がゆらめいていた。私はその匂いを吸い込み、まだ終わっていない物語の続きを、静かに受け入れた。