ドリカムがまだ三人組だった頃の歌を、いまでもふいに思い出すことがある。あのころの私は、田舎の高校からそのまま地方の大学へ進んだ、少しだけ背伸びした一人暮らしの大学生だった。
同じ高校から同じ大学に進んだのは、私を入れて三人だけ。地元では顔なじみでも、知らない街に出れば心細さのほうが先に立つ。だから私たちは、授業が終わるたびに誰かの部屋へ集まり、安いお菓子をつまみながら、どうでもいい話をして夜をやり過ごしていた。
健ちゃんは元バスケ部で、背が高くて目立つタイプだった。高校のころはそれなりにモテていたのに、大学ではバイトに追われていて、恋人はいない。遼君は、肌がきれいで目が大きくて、見た目だけなら雑誌から抜け出してきたみたいな人だった。しかも実家は地元でも有名な地主の家で、私たちの家賃の倍どころではないマンションに住んでいた。
私はといえば、都会の空気に慣れたふりをしながら、実際はいつも少しだけ遅れていた。服も、話し方も、笑うタイミングも。友達はできたけれど、心の底から気を許せる相手は、結局その二人のままだった。
特に遼君とは、よく二人で出かけた。買い物に付き合ってもらったり、遅い昼ご飯を食べたり、ただ電車に乗って帰ったり。周囲には、私たちが付き合っていると思っていた人もいたらしい。けれど本人たちは、そんな空気を半分からかい、半分受け流しながら、妙に自然に隣にいた。
「奈々、もうすぐ誕生日だけど、欲しいものある?」
遼君がそう聞いたのは、春先の少し湿った夜だった。
私は少し考えてから、夏用のバッグが欲しいと答えた。先週一緒に見た、あの形。黄色も可愛かったけれど、私にはピンクのほうが似合う気がした。
「ああ、あれね。黄色も似合いそうだったけど、奈々はやっぱりピンクだな」
遼君はさらりと言う。そういうところが、ずるいくらい自然だった。
健ちゃんが、わざとらしく肩を揺らして笑った。
「講義室でさ、二十歳までに彼氏が欲しいって騒いでたくせに」
「健ちゃんだっていないじゃん」
「今はいないけど。奈々たちは、二十歳までに“やりたい”んだろ?」
「違うし」
「講義室は声が響くから、もう少し小さく言わないと」
健ちゃんはからかうのがうまかった。私は顔が熱くなって、言い返そうとしても、うまく言葉にならない。
本当は、誰かに合わせただけだった。周りがそういう話をするから、つい同じように笑ってしまっただけ。けれど遼君は、そんな私の空気を見抜いたみたいに、静かに言った。
「奈々、焦らなくていいよ」
彼女のいない遼君に慰められると、妙に説得力があった。私は苦笑いしながら、鍋の湯気の向こうで揺れる二人の顔を見ていた。
その夜は、遼君の作った鍋を食べてから、私と健ちゃんは電車に乗った。遼君のマンションから帰るとき、健ちゃんはいつも私のマンションの近くまで送ってくれる。同じ駅で降りるのに、わざわざ反対方向へ歩くのだ。
「何かあって後悔したくないから」
そう言って、雨の日も風の日も、当然みたいに並んでくれた。
けれどその日は、駅の近くで工事をしていて、私の部屋までの道が遠回りになっていた。いつもの倍以上かかる。だから今日は送らなくていい、と何度も断ったのに、歩き出してしばらくしたところで、空が急に泣き出した。
最初は細い雨だった。すぐやむと思った。だが雨脚はみるみる強くなり、私たちは駅前の軒先に駆け込んだ。コンビニまで走って傘を買おうとしたけれど、棚はもう空っぽだった。
春とはいえ、夜の空気は冷たい。濡れた服が肌に貼りつき、指先がじんじんする。私は腕を抱え、健ちゃんも苦笑いしながら肩をすくめた。
「仕方ない、俺んち行こう」
そうして、私たちは雨の中を短く走った。
健ちゃんの部屋は、男の一人暮らしにしては妙に整っていた。余計なものが少なく、洗濯物も散らばっていない。ドアを閉めると、外の雨音が一気に遠のく。
「奈々、先にシャワー浴びて」
私が返事をする前に、タオルとスウェットが押し付けられた。濡れた服を脱ぐのも、渡されたものを受け取るのも、全部が早い。私は言われるまま浴室に飛び込み、熱いシャワーを頭から浴びた。
冷えた体にお湯が染みていく。息をつくたび、ようやく生き返るような気がした。髪を拭き、スウェットに腕を通すと、丈は太ももの途中までしかなかった。下着まで濡れていたけれど、健ちゃんがくれたのは上だけだったから、なんだか落ち着かない。
「奈々、エアコンつけてるから、変わって」
ドライヤーを渡されたかと思うと、私は半ば追い出されるように浴室の外へ出された。仕方なく、何も履いていないまま部屋に戻る。座るのもためらって、膝立ちで髪を乾かしていると、今度は健ちゃんがスウェットの下だけを履いて入ってきた。
「服、洗濯機で回していい?」
「いいけど、これじゃ帰れないよ」
健ちゃんは、私の足元からスウェットの裾へ視線を落とした。
「いつも着てるワンピースと、そんなに変わらないじゃん」
「全然違うし。下着もつけてないのに」
「へ?」
私が言うと、健ちゃんの目が一瞬止まった。胸元と裾のあいだを、確かめるみたいに見てくる。
その視線に気づいた瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
「奈々、二十歳までにやってみる?」
「は? 何言ってるのよ」
「いや、誘ってるのかと思って」
「そんなわけないじゃん」
健ちゃんは、少しだけ笑って、それから妙に真面目な顔になった。
「奈々、ちゃんと色気もあるから。興味あるなら、途中までならやってみる?」
「途中って、何?」
問い返した私の声は、思ったよりかすれていた。
後ずさろうとして、私はそのまま尻餅をついた。スウェットの裾がめくれ、隠していたものが少しだけ見えてしまう。健ちゃんの視線がそこに吸い寄せられたのが、はっきり分かった。
「もっと見せて」
「見せるわけないじゃん。恥ずかしいからやめてよ」
「恥ずかしいところ見せないと、できないよ」
「しないっ。しなくていいっ」
必死に手で隠そうとしたのに、健ちゃんはそれを止めた。からかうような声なのに、目だけは妙に熱っぽい。
「体、ちゃんと反応してる」
私は顔から火が出そうになって、何も言えなくなった。
それからの時間は、あまりにも急だった。健ちゃんは私の緊張をほどくみたいに触れてきたかと思うと、次の瞬間には息が詰まるほど近くにいた。私は戸惑いのまま身をこわばらせ、それでも、逃げることができなかった。
自分の口から、聞いたことのない声が漏れる。恥ずかしいのに、止められない。怖いのに、少しずつ気持ちがほどけていく。そんな感覚を、私は生まれて初めて知った。
「奈々、気持ちいい?」
答えようとしても、言葉にならない。ただ、熱いものが体の奥からじわじわ広がって、頭の中が白くなる。指先まで痺れて、考える力が薄れていく。
こんなふうになるなんて知らなかった。触れられるだけで、こんなに世界が変わるなんて。私は息を乱しながら、何度も同じ言葉を繰り返していた。
「気持ちいい……」
その声は、自分のものとは思えなかった。
健ちゃんは少しだけ間を置いてから、今度はもっと踏み込んだことをしようとした。私は痛みと怖さを覚えながらも、どこかで、もう引き返せないことを理解していた。
初めての感覚は、甘くて、怖くて、痛くて、目がくらむほどだった。息を止めるたびに、現実が遠ざかっていく。
「奈々、痛い?」
私は小さくうなずいた。怖い。でも、ただ痛いだけではなかった。知らない世界の扉が、少しだけ開いた気がした。
健ちゃんは、そんな私を見て、困ったように笑った。
「ごめん。次はベッドでやろう」
「まだするの?」
「二十歳までに、痛くならないように練習しよう」
「何、それ」
「もっと気持ちよくなるよ。気持ちよくなりたくない?」
私は、答えるまでに少しだけ時間がかかった。
「……なりたい」
健ちゃんはベッドにバスタオルを敷き、私をそっと寝かせた。雨はまだ外で降り続いていたけれど、部屋の中は静かだった。あの夜のことを、私はずっと忘れない。
そのとき私は、二十歳になるというのが、ただ年齢がひとつ増えるだけのことではないのだと知った。子どもみたいに笑っていたはずの時間が、音を立てて別の景色に変わっていく。健ちゃんと遼君と過ごした、あの不器用でまぶしい日々の中で、私だけが少し先へ進んだような気がした。
翌朝、雨上がりの空はひどく澄んでいた。濡れたアスファルトが光って、何もなかったみたいに街が動き出している。私は健ちゃんの部屋を出るとき、昨日までの自分とは少し違う足取りで階段を降りた。
まだ何も分からない。けれど、分からないままでも前へ進むしかないことを、その夜の私は覚えたのだと思う。
遼君が選んでくれたバッグは、結局、誕生日の少しあとに受け取った。ピンクの、やわらかい色の小さなバッグだった。私はそれを手に取るたび、春の雨と、健ちゃんの部屋のぬくもりと、二十歳になったばかりの自分の戸惑いを思い出す。
あの夜から、三人の距離は少しだけ形を変えた。けれど、壊れたわけではなかった。むしろ、壊れそうで壊れなかったからこそ、私たちはその後も、何年も何年も、あの頃の話を笑ってできるのだと思う。
雨に閉じ込められた夜のことを、私は今でも鮮明に覚えている。怖かった。恥ずかしかった。だけど、あの瞬間の私はたしかに、生きていた。