地方の女子高から東京の大学へ出てきた私は、浅川里奈という仮名で自分を名乗っていた。英文科に通いながらも、毎日が勉強だけで埋まっていたわけではない。むしろ、知らない街の空気、初めて見る景色、そして自分でもうまく言葉にできない好奇心のほうが、ずっと強く胸の中でふくらんでいた。
高校時代は女子だけの世界にいたせいで、男の子と自然に距離を縮める機会はなかった。それでも、誰かに触れられることや、恋をすること、身体が熱くなる感覚には、ずっと前から興味があった。見ないふりをしていたわけではない。ただ、触れるきっかけがなかっただけだ。
大学に入ってから、私は先輩に誘われてテニス同好会のSテニスクラブに入った。そこは思っていた以上に人のつながりが濃く、男女の距離も近かった。附属出身の人が多く、先輩たちは東京の店や遊び場にやけに詳しい。会話の端々から、私は少しずつこの街の空気に慣れていった。
その中に、青山先輩がいた。三年生で、落ち着いた雰囲気があり、どこか余裕のある人だった。私の高校の先輩の彼氏の親友でもあり、最初から完全な他人という感じではなかった。その距離の近さが、かえって私の気持ちを揺らしたのかもしれない。
夏合宿が終わった夜、私たちは四人で青山先輩の車に乗って帰った。途中で高校の先輩たちを降ろし、残った空気が少しだけ静かになったころ、青山先輩が「食事でも行く?」と誘ってきた。断る理由はなかった。むしろ、心のどこかで待っていたような言葉だった。
食事を終えたあと、青山先輩は「少しドライブしようか」と言って、車を江ノ島のほうへ向けた。夜の海は、昼間とはまるで別の顔をしていた。砂浜にはカップルが点々といて、波の音も、街の灯りも、全部が少しだけ夢みたいだった。
「里奈ちゃん、キスしていい?」
そう言われたとき、私は自分がどんな顔をしていたのか覚えていない。ただ、軽くうなずいた。唇が触れた瞬間、身体の奥がふっと浮いたような気がした。初めてのキスは、甘いというより、驚きに近かった。胸の鼓動がうるさくて、うまく息ができない。
そのまま肩を抱かれ、私は青山先輩に導かれるように車へ戻った。向かった先は、近くのラブホテルだった。見慣れない廊下、静かな照明、部屋の中に入ったときの少し閉じた空気。大きなベッドとテレビ、小さなテーブル、ソファー。何もかもが、私の知っている日常から外れていた。
「暑かっただろう。先にシャワー浴びておいで」
その声はやさしかった。私はうなずいて、脱衣場で服を脱いだ。ピンクのTシャツとデニムのミニスカートを床に置き、下着姿になってから、少しだけためらってブラジャーとパンティも外した。バスルームに入ると、熱い水が肩に当たって、張りつめていた気持ちが少しずつほどけていく。
しばらくすると、ドアの向こうから「入るよ」と青山先輩の声がした。
「イヤッ、恥ずかしい……」
そう言った私を、先輩は笑わずに抱きしめた。濡れた肌に腕が回り、唇が重なる。やさしいのに、逃げられない。そういう触れ方だった。私はただ、胸の奥が熱くなるのを感じていた。
「里奈ちゃん、きれいだよ」
そのひと言で、顔がかっと熱くなった。初めて見られる自分の裸が、こんなにも恥ずかしく、こんなにも誰かの視線を意識させるものだとは思っていなかった。青山先輩は私を急かさず、少しずつ、確かめるように触れてきた。
先にバスルームを出た私は、髪を乾かしてバスタオルを巻き、ベッドのほうへ移った。ほどなくして、青山先輩もバスタオル姿で出てきた。冷蔵庫から缶ビールを取り出し、「里奈ちゃんも何か飲む?」と聞く声が、さっきまでとは違う日常の温度を連れてきた。
私は麦茶を選んだ。まだ少しだけ、現実に戻りたかったのだと思う。けれど、グラスを受け取って「乾杯」と言われた瞬間、もう後戻りはできないのだと、どこかでわかっていた。
ベッドに座った私のそばへ来た青山先輩は、ためらいなく私を抱き寄せた。キスをされ、タオルの端がずれていく。私は腕で胸を隠したけれど、「隠さなくていいよ」と穏やかに言われると、力が抜けてしまった。彼の手はやさしく、けれど確かな熱を持っていた。
初めての感覚は、怖さと気持ちよさが混ざっていて、どちらが先に来ているのかもわからなかった。触れられるたびに身体がびくっと反応し、声が漏れそうになる。私は恥ずかしさで目を閉じたまま、ただ流れに身を任せていた。
青山先輩は、私が初めてだと知ると、いっそう丁寧になった。「大丈夫、ゆっくりでいい」と何度も言ってくれた。その言葉に、私は少しだけ安心した。痛みはあった。けれど、それ以上に、知らなかった場所が少しずつ開いていくような、不思議な感覚が残った。
やがて、私は青山先輩に強く抱きついていた。怖かったのに、離れたくなかった。終わってみると、思っていたほどの苦しさだけではなく、胸の奥に熱いものが残っていた。眠ってしまったらしく、気がつくと私は彼の腕の中にいた。
朝になって、「おはよう」とキスをされたとき、昨夜とは違う自分がそこにいる気がした。青山先輩の呼び方を変えようという話になり、「青さん」と呼ぶことにした。名前の距離が近づくと、不思議と心まで近づいたように感じる。
その朝の続きは、昨夜よりもずっと自然だった。身体はもう怯えていなかったし、触れられるたびに、昨日まで知らなかった反応が返ってくる。私は自分でも驚くほど素直に、青さんの腕の中にいた。
しばらくしてから、二人で風呂に入り、ホテルを出た。途中でカフェに寄って朝食をとり、青山先輩は私のマンションまで送ってくれた。別れ際、部屋を見たいと言われたときは少し戸惑ったけれど、断る気にもなれなかった。
ワンルームの部屋は、バスとトイレが別で、ミニキッチンのついた普通の部屋だった。青山先輩は「きれいにしてるじゃない」と笑い、干してあった下着に気づいて私をからかった。私は慌てて取り込んだが、その様子まで含めて、あの人は楽しんでいるようだった。
部屋に入ると、また空気が変わった。ホテルの匿名性が消え、私の生活の匂いがある場所で、二人はもう少しだけ近くなった。ベッドに倒れ込むようにして、服を脱がされ、触れられ、私はまた知らない熱に包まれた。
今度は、昨夜よりずっと身体が素直だった。痛みは少なく、むしろ、触れられるたびに奥のほうがじんと熱くなる。私は戸惑いながらも、自分から腰を動かしてみた。青さんがそれに応えるように動きを深くすると、声がこぼれて止まらなかった。
「里奈、気持ちいい?」
その問いに、うまく答えられない。ただ、息が乱れ、指先まで熱くなっていた。たぶん、私はもう戻れないところまで来ていたのだと思う。けれど不思議と、怖さはなかった。
夏休みのあいだ、青山先輩とは週に何度も会った。デートをして、そのたびに身体を重ねた。最初の夜に感じた痛みは次第に薄れ、代わりに、会う前から胸がそわそわするようになった。待つ時間さえ、少し楽しかった。
私はそのころ、まだ自分がこの先ソープランドで働くことになるなんて、まったく想像していなかった。あの夜は、ただ一人の先輩と初めて結ばれた、私の夏の記憶だった。けれど、その記憶はあとになって、私の人生の別の扉を開く前触れだったのかもしれない。
次は、私がソープランドでアルバイトを始めることになった経緯を書こうと思う。あの夏のあと、私の毎日は少しずつ、でも確実に変わっていった。
――終わり。
