高梨華、32歳。25歳で結婚し、二年後に夫の裏切りで離婚した。いまは都内の会社で事務員として働く、どこにでもいるような独身女性だ。周囲からは「おっとりしている」と言われることが多い。身長は156センチ、体重は55キロ。黒髪のミディアムヘアに、ふっくらした体つき。自分ではあまり意識していなかったけれど、今の恋人からは「清楚そうに見えて、妙に色っぽい」と言われることがある。
学生のころから、私は少しだけ人より早く大人になった。胸のふくらみも、身体の輪郭も、同年代の友人たちより先に変わっていった。私立の高校に通っていた通学路では、視線の刺さり方に落ち着かない日もあったし、嫌な思いをしたことも一度や二度ではない。だからこそ、誰かに好意を向けられても、うまく受け取れずにいた。話しかけられても、笑ってごまかして距離を取る。そんなふうにして、いつも少しだけ人の輪の外側にいた。
高校二年の昼休み、私は屋上でこっそりライトノベルを読んでいた。人の少ない場所が好きだったし、物語の世界に沈んでいる時間は、余計なことを考えなくて済む。そこへ、隣のクラスの関くんが現れた。控えめで、目立つタイプではない。クラスの中でもひとりでいることが多く、誰かに無理に混ざろうともしない子だった。最初は少し気まずかったのに、好きな作品の話をした途端、空気が変わった。たったそれだけで、彼との距離は驚くほど縮まった。
「なんか、俺と華さん、似てるよね」
「そうですね。私もひとりが好きです。関さんといると、落ち着きます」
そんな会話を重ねるうちに、放課後に並んで歩くのが自然になった。デートをして、手をつないで、少しずつキスも覚えた。関くんは静かなのに、こちらを見つめる目だけは真っ直ぐで、そこに嘘は感じなかった。私はその誠実さに、安心していたのだと思う。
けれど、初めて身体を重ねた日を境に、彼の空気は少しずつ変わっていった。普段は穏やかなのに、ふたりきりになると、まるで別人みたいに強引で、熱っぽくて、欲望を隠さなくなった。最初は戸惑った。けれど、嫌だとは思わなかった。むしろ、長いあいだ押し込めていた自分の欲しさが、彼の手で静かにほどけていくような感覚があった。
私は、断るのが苦手だった。いや、正確には、拒むよりも受け入れるほうが性に合っていたのかもしれない。関くんとは、いろいろなことをした。ふたりだけの秘密みたいに、どんどん深いところへ落ちていった。学生の私には、恋と欲望の境目が曖昧で、彼に求められること自体が、どこか救いだった。
卒業後、私は親の勧めもあって、ある会社の社長との縁談を受けた。愛情よりも条件が先に立つ結婚だった。最初から少し無理をしていた関係は、長くは続かなかった。夫は次第に家に寄りつかなくなり、夜の街に居場所を移していった。やがて浮気が発覚し、私は離婚を選んだ。引き止める理由も、もう残っていなかった。
離婚して二年。私は淡々と仕事をし、淡々と帰宅し、淡々と日々をやり過ごしていた。そんなある日、職場の同僚であるMさんが、やけに楽しそうに話しかけてきた。
「華さん、今度合コンあるんですけど、一緒に来ません?」
「私はいいですよ。もう年ですし、Mさんみたいに若くないですから」
するとMさんは、私をからかうように笑った。
「えー、華さんきれいだし、雰囲気も上品だし。来てくださいよ。相手、大学生なんです。しかもわりとイケメン揃い」
若い子たちの中に混ざるなんて、場違いもいいところだと思った。けれど、Mさんの勢いに負けて、結局行くことになった。
当日、仕事を終えて居酒屋に向かうと、そこには私服姿の学生たちが並んでいた。私だけがスーツで、少し浮いているのが自分でもわかった。最初は早めに帰るつもりだった。お酒も得意ではないし、気まずくなったらそのまま失礼しよう。そんな軽い気持ちだった。
ところが、自己紹介が終わって少し経ったころ、ひとりの男の子が私のそばへ来た。人懐っこく、でもどこか遠慮のない笑顔をしている。彼は佐伯颯真と名乗った。
「楽しんでます? こういうの、苦手ですか」
「そうですね。合コンって、ほとんど経験がないので」
「華さん、正直めっちゃタイプです」
私は思わず目をそらした。年下にそう言われると、どう反応していいのかわからない。
「えっと……お名前、なんでしたっけ」
「自己紹介したじゃないですか。佐伯です。颯真でいいですよ」
「それでは、颯真さん」
「華さん、彼氏いないんですか」
「離婚してますから」
「元人妻、ってこと?」
その言い方に、少しだけ胸がざわついた。からかっているのか、本気なのか、よくわからない。でも、彼の視線は妙に真剣だった。
「俺、華さんともっと仲良くなりたいです。違う場所で、ふたりで話しません?」
しばらく迷った末に、私はうなずいた。ここで少し抜けるだけなら、帰る口実にもなる。そんなふうに考えていた。
けれど、店を出て街を歩いているあいだに、颯真さんは思った以上に距離を詰めてきた。会話は途切れず、私は次第に帰りそびれたような気分になっていく。
「じゃあ、そろそろ帰りますね」
「え、もう? それはないって。華さん、ひどいですよ」
「でも、夜も遅いですし」
「嫌いなら嫌いって言ってくださいよ」
「嫌いなんて、ありません。今日会ったばかりですし」
彼は本気で落ち込んだように見えた。私も少しだけ罪悪感を覚えた。明日は休みだし、少しだけならいいか。そう思ってしまったのが、たぶん始まりだった。
「じゃあ……もう少しだけなら」
「やった。ここ行きましょう」
颯真さんが指差した先は、ホテルだった。
思わず固まった私に、彼は悪びれもせず笑う。
「静かなところで話したいだけですよ。なに想像してるんですか」
顔が熱くなった。私は勝手に変なことを考えていたのだと気づいて、余計に恥ずかしくなった。
「し、知ってます。早く行きましょう」
そう言ってしまった時点で、もう引き返しにくかった。
部屋に入ると、颯真さんはすぐにシャワーを浴びに行った。私はソファに座ったまま、ここで出ていくこともできると何度も考えた。けれど、立ち上がれなかった。心のどこかで、期待していたのかもしれない。そんな自分を認めるのは、少し怖かった。
シャワーを終えた颯真さんは、すっきりした顔で戻ってきた。若い身体は引き締まっていて、無駄がない。私は視線の置き場に困る。
「華さんも浴びれば」
「じゃあ、少しだけ」
立ち上がった瞬間、手首をつかまれた。
「やっぱダメ」
そのままベッドへ倒れ込む。息が詰まりそうになった。
「あの……まさか、しませんよね」
「しますよ。普通に。華さん、すごくきれいだし」
「私、そんなつもりないです。止めてください」
「本当に? でも、全然逃げないじゃないですか」
その言葉に、私は何も返せなかった。抵抗していないのは、たしかに事実だったからだ。怖さより先に、抱かれたい気持ちがあった。求められたい。触れられたい。自分でも驚くほど、そんな欲望が膨らんでいた。
「……したい、です。セックス」
口にした瞬間、自分で自分に驚いた。颯真さんは目を丸くして、それから笑った。
「華さんからその言葉、出るんだ」
私はもう、どうにでもなれと思っていた。彼氏も夫もいない。誰かに遠慮する必要もない。だからこそ、私は素直になった。
「久しぶりなので……優しく抱いてくれますか」
「もちろん」
けれど、その答えを口にしたあとで、私は首を振った。
「……嘘です。激しく。ちゃんと、めちゃくちゃにしてください」
颯真さんの表情が変わった。熱を帯びた目が、私をまっすぐ捉える。
そのあとに何が起きたのか、細かな順序を思い出すのは少し難しい。けれど、ひとつだけはっきりしている。私は彼の前で、長いあいだ閉じていた扉を開けてしまったのだ。恥ずかしさも、ためらいも、少しずつ熱に溶かされていく。触れられるたびに、昔の私とは違う何かが目を覚ましていくのを感じた。
颯真さんは、見た目の軽さとは裏腹に、私の反応をよく見ていた。急かすのではなく、こちらの呼吸が乱れる瞬間を逃さない。私はその手つきに、学生時代とは違う種類の安心を覚えた。欲望のままに流されているのに、どこかで大事に扱われている気がしたからだ。
気づけば、私は彼の腕の中で何度も息を乱していた。身体の奥が熱く、言葉にならない感覚が波のように押し寄せる。ひとりで抱えていた寂しさも、離婚後に置き去りにしていた空白も、その夜のあいだだけは、少しだけ満たされていった。
明け方、まだ薄暗い部屋の中で、私は自分の髪を整えながら、隣で眠る颯真さんを見つめていた。あの合コンに行かなければ、こんな夜はなかった。けれど、行かなければずっと気づかないままの気持ちもあったはずだ。
私はもう、ひとりで閉じこもるだけの人間ではいたくなかった。誰かに触れられて、笑って、欲しがって、また少し前へ進む。そんなふうに生きてみたいと思った。
それが、今の彼と恋人になるまでの、静かで、少し危うくて、けれどたしかに私を変えた始まりだった。