R18短編小説

氷の姫と住み込みバイト、最初の夜

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執筆:編集部(原記事に基づく再編集) 編集部による品質基準審査済み
氷の姫と住み込みバイト、最初の夜
夏休み最後の週末、俺と愛華さんは、水泳部が使っている合宿所――正式には研修センターと呼ばれる建物にいた。

もっとも、以前みたいに部活のマネージャーとして来ているわけじゃない。今の俺たちは、住み込みの短期バイト仲間だ。そう言葉にすると簡単だけど、実際はかなり変な流れだった。

どうしてこんなことになったのか。話は一週間ほど前にさかのぼる。

「藤井、ちょっと手伝ってくれない?」

その一言を最初に聞いたとき、俺はてっきり、いつもの雑用か何かだと思っていた。愛華さんは、部活内ではちょっと近寄りがたい存在だった。無駄口は少なく、表情も冷たい。あだ名は“氷の姫”。本人の耳に入ったら怒られそうだけど、実際そう呼ばれるだけの雰囲気はあった。

けれど、近くで見れば本当に冷たい人かというと、そうでもない。口調は淡々としているのに、困っている人を放っておけない。そういう不器用さがある。俺はそのことを、何度かの部活で少しずつ知っていた。

「研修センター、今週末だけ人手が足りないんだ。宿直の人が一人休むらしくて、部屋の片づけと風呂場の掃除、それから簡単な受付補助。住み込みで二日だけ。やる?」

俺は思わず聞き返した。住み込み。二日だけ。しかも相手は愛華さん。条件だけ並べると、怪しいというより意味がわからない。

「俺がですか」

「そう。藤井くんなら、変に気を遣わなくて済む」

その言い方は、少しだけずるい。断りづらいのに、押しつけがましくない。結局、俺は首を縦に振ってしまった。

それで今、俺たちは夕方の薄暗い廊下に立っている。外はまだ暑いのに、建物の中はひんやりしていた。古い木の床がところどころ軋み、窓の向こうでは蝉の声が遠くに溶けている。合宿所というより、静かな山の宿に近い。

愛華さんは髪を一つにまとめ、白い手袋をはめていた。作業着姿でも、妙に整って見える。本人は無表情のまま、壁際に立てかけたモップを見ていた。

「まずは風呂場。汚れが残ってると、明日の利用者に文句を言われる」

「了解です」

「それと、床は滑りやすい。ふざけないこと」

「ふざけませんって」

短いやり取りなのに、なぜか少しだけ気持ちが落ち着く。愛華さんは厳しい。でも、最初から最後までちゃんと見ている人だった。

風呂場は、広かった。学校の部室棟にあるシャワー室なんて比べものにならない。天井は高く、タイルの壁には白い湯気の跡がうっすら残っている。排水口のまわりには髪の毛や石けんカスがたまっていて、夏の終わり特有の湿った匂いも混じっていた。

「ここ、けっこう本格的ですね」

「合宿所だから。人数が多いと、すぐ汚れる」

愛華さんはそう言うと、手際よく洗剤を吹きつけた。しゃがんだ姿勢のまま、ブラシを小さく動かしていく。その動きは無駄がなく、見ていて妙に感心する。

俺もスポンジを手に取り、隣の浴槽をこすり始めた。最初は黙々と作業していたが、しばらくすると、愛華さんがふいに口を開いた。

「藤井くん」

「はい」

「……前より、手つきが慣れてる」

「そうですか?」

「前はもっと雑だった」

それは否定できない。部活の手伝いをしていた頃、俺は大抵なにをやっても中途半端だった。ところが、こうして人手の足りない場所で仕事を任されると、嫌でも覚える。自分でも少しは変わったのかもしれない。

「愛華さんこそ、すごく手慣れてますね」

「慣れてるわけじゃない。やるしかないだけ」

その返しは、彼女らしかった。謙遜でも自慢でもなく、ただ事実を口にするだけ。けれど、その言葉の裏にある苦労は、なんとなく伝わってくる。

風呂場の床を磨いていると、泡が足元をすべって、ひやりとした水が靴下の端を濡らした。思わず声を上げそうになった俺を見て、愛華さんがほんのわずかに目を細める。

「だから言ったでしょ。滑るって」

「すみません……」

「別に怒ってない」

怒っていない、と言う声はいつもより少しだけ柔らかかった。

その瞬間、変なことに気づく。愛華さんは、近い。もちろん物理的な距離の話だ。だが、それだけじゃない。洗剤の匂い、濡れた髪の毛先、作業に集中している横顔。そういうものが、妙に鮮明に目に入る。

以前の俺なら、こんな空気に耐えられなかったはずだ。だが今は、気まずさよりも先に、彼女と同じ空間で何かを進めている実感のほうが強かった。

しばらくして、浴槽の縁にこびりついた汚れがようやく落ちた。白いタイルが少しずつ本来の色を取り戻していく。

「……きれいになると、気持ちいいですね」

「そうね」

愛華さんは短く答えたあと、少し間を置いてから付け足した。

「こういうの、嫌いじゃない」

その一言が、やけに印象に残った。氷の姫なんて呼ばれている彼女にも、ちゃんと好きなものがある。しかもそれは、派手なことじゃなくて、汚れた場所を整えていく地味な作業だった。

なんだか、その事実が嬉しかった。

作業がひと区切りついたころには、外はすっかり暗くなっていた。窓の外に見える山の稜線は黒く沈み、遠くの街の明かりだけがぽつぽつ滲んでいる。風呂場の換気扇が低く回り続け、濡れた床からは、まだ石けんと水の匂いが立っていた。

「次、脱衣所」

「はい」

俺が返事をすると、愛華さんは少しだけ頷いた。ほんの小さな動きだったけれど、なぜかそれが妙に嬉しかった。

脱衣所には、使い終わった籠やタオルが雑然と積まれていた。床には砂のような細かい埃が残っていて、隅には誰かの忘れ物らしいヘアゴムまで落ちている。俺がそれを拾い上げると、愛華さんがこちらを見た。

「捨てないで。たぶん持ち主がいる」

「わかりました」

「そういうの、ちゃんと見てるのね」

「え?」

「前は、気づかなかったでしょう」

言われてみればその通りだった。昔の俺は、目の前のことをこなすので精一杯で、周囲の細かな変化なんてろくに見えていなかった。けれど、ここで働くようになってからは違う。誰が何を置き忘れたか、どこが汚れやすいか、誰が無理をしているか。そういうものが少しずつ見えるようになってきた。

「愛華さんのおかげかもしれません」

その言葉に、彼女は一瞬だけ目をそらした。照れたのか、それとも気まずかったのかはわからない。けれど、耳の先がほんの少し赤いように見えた。

「……そういうの、急に言わないで」

「すみません」

「謝ることじゃない」

そう言いながら、愛華さんは棚の拭き掃除に戻った。背中越しに見える肩は細いのに、妙に頼もしい。

その夜、宿直室に戻ったあとも、俺はしばらく眠れなかった。布団は薄く、窓の外では虫が鳴いている。隣の部屋に愛華さんがいると思うと、落ち着かない。けれど、不思議と嫌ではなかった。

住み込みのバイトなんて、最初は面倒なだけだと思っていた。ところが、たった一日、たった数時間の作業で、愛華さんの別の顔を見た気がする。冷たく見える人ほど、黙ってやることをやる。その姿は、派手さはないのに妙に印象に残る。

そして翌朝、俺たちはまた同じ廊下に立つことになる。朝の光に照らされた彼女は、昨夜より少しだけ柔らかく見えた。まだ始まったばかりだ。けれど、この二日間がただのバイトで終わらない予感だけは、なぜかはっきりしていた。

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