いつも同じ時間の帰り電車で、窓に映る横顔ばかりを見ていた。地味で控えめな印象の中年女性だったが、眼鏡の奥の視線が妙に気になって、気づけば一年以上も、ただすれ違うだけの関係が続いていた。
話しかける理由なんてない。向こうもこちらを知っているわけではない。そう思い込んでいたのに、あの日は違った。
半年前、通勤途中の電車が人身事故で突然止まった。ざわつく車内、遅れの案内、誰もがため息をつく中で、たまたま隣に座っていた彼女が、乗り換えに間に合うかしらと小さくつぶやいた。その声が、思っていたよりずっと近くに落ちた。
彼女の先はローカル線だった。一本逃せば、次はかなり先になる。そう聞いて、私は思わず口を開いた。よければ送りますよ、と。
最初は遠慮していた。悪いです、と何度も首を振った。それでも、迎えがないこと、単身赴任中の夫がいること、子どもたちはもう成人して別々に暮らしていることをぽつぽつ話すうちに、少しずつ表情がほどけていった。結局、彼女は私の車に乗った。
家の前まではまずいでしょうから、と駅近くのコンビニで降ろした。別れ際、彼女は何度も頭を下げた。あのときは、ただ親切をしただけのつもりだった。けれど翌日、また電車で隣に座った彼女は、昨日より少しだけ柔らかい顔をしていた。
それからは、自然と毎日のように並んで帰るようになった。会話は仕事のこと、天気のこと、駅前の店のこと。ありふれた話ばかりなのに、彼女の笑い方が少しずつ変わっていくのがわかった。
一週間ほどたった頃、今度は乗り換え先で遅延が起きた。彼女は困ったように時計を見て、私はまた送りますよ、と言った。車に乗り込んだ彼女は、昨日よりもずっと自然にシートベルトを締めた。
降りる直前、彼女はふいに私の手に触れた。
「このまま帰しちゃうの?」
そのひと言で、空気が変わった。私は何も言えず、彼女の肩を引き寄せた。唇が触れると、彼女は驚くほど素直に目を閉じた。そこから先は、あえて急がない約束だけをして、その夜は別れた。
次の土曜日、駅近くのコンビニで待ち合わせをした。いつものスーツ姿ではなく、白いワンピースを着ていた。夕方の光の中で、普段よりずっと若く見えた。思わず、似合いますね、と言うと、彼女は少し照れたように笑って、おばさんなのに、なんて返した。
そのまま向かったのは、地元でいちばん雰囲気のいいラブホテルだった。彼女は入口で一瞬だけ足を止めたが、すぐに腕を絡めてきた。
「いきなりなのね」と言いながら、声は楽しそうだった。普通は食事からじゃないの、とからかうように言って、それでも離れようとはしなかった。
部屋に入ると、彼女は内装を見回して目を輝かせた。夫はこんな場所に連れてきてくれなかったの、と、少し拗ねたような声で言う。私は先に食事を済ませましょうかとメニューを渡し、風呂の準備をした。彼女はそのあいだ、ベッドの端に座ってテレビを眺めていた。
落ち着いたところで、私はスマホをセットし、部屋の明かりを少し落とした。彼女は何を撮るのかと聞いたが、恥ずかしさより好奇心のほうが勝っている顔だった。
最初は、彼女がどこかぎこちなかった。夫とのあいだでは、触れ合うこと自体が淡々としていたらしい。手で確かめ合って、少し濡れたら、短く終わる。そんな関係が長く続いていたという。
だからこそ、私は急がなかった。ゆっくりと、彼女の呼吸の変化を確かめながら、ひとつずつ反応を見ていった。彼女は最初こそ声を飲み込んでいたが、やがて抑えきれなくなり、シーツを握る指先に力が入った。
「こんなの、初めて……」
そう言ったときの顔は、少し恥ずかしそうで、それ以上に嬉しそうだった。私は彼女の反応に合わせてさらに深く抱き寄せた。体の奥が熱を持つたび、彼女は小さく震え、何度も息を漏らした。
途中、彼女は私の首に腕を回し、しがみつくようにして離れなくなった。気持ちいい、と何度も繰り返す声は、次第に甘く、切実になっていった。ひとつの波が引いても、またすぐ次が来る。そんなふうに、彼女は何度も自分を預けてきた。
しばらく抱き合ったまま、私は彼女の髪を撫でた。彼女は安心したように目を細め、幸せ、と小さく言った。その言葉が妙に胸に残った。
身体を重ねるたび、彼女の表情は少しずつ変わった。最初の遠慮は消え、代わりに、もっと欲しいという素直な熱が前に出てくる。私はその変化を面白いと思いながらも、どこかで大事なものに触れているような気分になっていた。
その夜は一度で終わらなかった。彼女が慣れてくると、求め方も大胆になった。さっきまでの控えめな雰囲気はどこへ行ったのか、今では自分から身を寄せ、もっと深く、と目で訴えてくる。
帰りの車の中でも、彼女はずっと上機嫌だった。どこがよかったのか、何が気持ちよかったのか、子どものように言葉を重ねる。私は運転しながら相づちを打ち、彼女はそれに満足して、何度も笑った。
そのあと、彼女の家に寄ることも増えた。夕飯を食べていって、と言われ、食卓につく。手料理は素朴で、けれど温かかった。食後にはまたふたりの時間が始まり、彼女は以前よりずっと積極的になっていた。
気づけば、ほぼ毎日のように連絡を取り合っていた。家族が来る週末だけは会えないが、それ以外は、帰りの電車で話し、車で送って、気が向けばどこかへ寄る。そんな流れが当たり前になっていった。
最近では、彼女のほうから新しいことを試したいと言うようになった。人目の少ない時間帯に、少し大胆なことをしてみたい、と。最初は冗談かと思ったが、彼女の目は本気だった。
このあいだは、私の用事が終わるまで待ってもらい、夕飯を一緒に済ませてから、いつもとは逆方向の電車に乗った。先頭車両はほとんど貸し切りで、彼女は窓の外を見ながら、妙に落ち着かない様子だった。
私が合図すると、彼女は躊躇なく服を脱いだ。ためらいはあるのに、命じられると素直に従う。その不思議な従順さが、彼女の中に眠っていた別の顔を引き出していた。
座らせたり、立たせたり、姿勢を変えながら写真を撮ると、彼女は少し照れながらも、やめようとはしなかった。途中の田舎駅で降りたときは、風が冷たくて、ホームの端に立つ彼女の姿がやけに鮮烈だった。
通過電車に気を配りながら、短い時間だけ濃密なやり取りをする。誰にも見られないはずの場所なのに、彼女は妙に興奮していて、終わったあとも頬を赤くしたままだった。
その後、再び人の少ない車両に乗り、座席で開放的な姿を見せてもらった。彼女はもう、以前のように恥ずかしがるだけではなかった。むしろ、自分の変化を楽しんでいるように見えた。
戻りの電車では、さすがに周囲に人がいたので、派手なことはできなかった。それでも彼女は、もう普通のやり方じゃ物足りない、と笑っていた。その言葉に、私は少しだけ驚いた。あれほど控えめだった人が、ここまで変わるものなのかと。
今では彼女のほうが先に予定を聞いてくる。次はいつ会えるの、今日はどこまでできるの、と。最初に事故で止まった電車の中で、たまたま隣に座っただけだった。あの偶然が、こんなふうに続いていくとは思っていなかった。
彼女は今夜も、少し大胆な顔で私を待っている。次はどんな表情を見せてくれるのか。それを確かめるのが、もうすっかり楽しみになっていた。