会社の飲み会が、思いがけない夜へ変わった。
牧子さんは四十四歳。事務員として長く勤めている、落ち着いた雰囲気の女性だった。夫は単身赴任中で、子どもはその夜、友人の家で開かれる集まりに出ているという。家に帰っても誰もいない。そんな言葉を口にしたとき、彼女は少しだけ肩の力を抜いたように見えた。
そこで、その場にいた気の合う独り身の連中を誘い、ささやかなパーティーを開くことになった。派手な催しではない。缶ビールとつまみを並べて、仕事の愚痴や昔話を笑いながらこぼす、ありふれた集まりだった。けれど、酒が進むにつれて空気はゆるみ、牧子さんの頬も次第に赤く染まっていった。
翌日も仕事がある。だから、九時にはお開きにしようと決めていた。俺はほとんど飲まなかったので、帰りは車でみんなを送る役を引き受けた。ひとり、またひとりと送り届けていき、最後に残ったのが牧子さんだった。
彼女はかなり酔っていた。車の中では静かで、うとうとしている時間のほうが長かった。玄関先に着いて声を掛けても、すぐには起きない。何度か名前を呼んだあと、仕方なく背負うようにして家の中へ運んだ。
そのときだった。背中越しに伝わる彼女の体温と、柔らかな重みが妙に生々しく感じられた。ふだんは職場でしか見ない人なのに、こんなふうに無防備な姿で寄りかかられると、気持ちの置き場がなくなる。理性で押さえ込もうとしても、近すぎる距離はどうしても心を揺らした。
リビングのソファーにそっと寝かせると、牧子さんは薄く目を開けた。ぼんやりした視線がこちらを捉え、しばらくしてから、何かを悟ったようにまぶたを伏せる。逃げるでもなく、拒むでもなく、ただ力を抜いたまま横たわっていた。
その沈黙が、妙に危うかった。触れれば壊れてしまいそうで、それでいて、もう後戻りはできないような気もした。俺はしばらく迷ったあと、そっと彼女の身なりを整えるように手を伸ばした。すると、牧子さんは小さく息を漏らし、熱を帯びたまま身じろぎした。
「……ゴム、ある?」
そう尋ねると、彼女は眠たげな声で、今さらというふうに首を振った。直前だから、そのままでいい。そんな返事だった。酔いのせいか、あるいは別の理由か、その言葉には妙な決意が混じっていた。
身体を重ねると、彼女は思いのほか素直に受け入れた。久しぶりだと、途切れ途切れにこぼす声が耳に残る。長いあいだ誰にも満たされていなかったのだろう。触れられるたびに、我慢していたものが少しずつほどけていくのが分かった。
やがて彼女は、熱を逃がすように浅く息を乱しながら、こちらにしがみついてきた。終わりが近づいたとき、俺は離れようとした。けれど、牧子さんは小さく首を振り、さらに強く引き留めた。
「中に……」
かすれた声だった。最初は聞き違いかと思った。だが彼女は、恥じらいと切実さが入り混じった表情で、もう一度だけ同じ言葉を口にした。求められるまま、俺はそのまま彼女の熱の奥へと身を沈めた。
終わったあと、部屋にはしばらく静けさだけが残った。牧子さんは目を閉じたまま、荒くなった呼吸を整えていた。やがて、少しだけ笑うような声で言った。
ずっと我慢していた、と。夫とのあいだは一年以上も途切れたままで、欲しいものを欲しいと言えない日々が続いていた、と。夜ひとりになるたび、考えないようにしても、気持ちは勝手に膨らんでしまうのだと。
その告白は、軽い冗談ではなかった。乾いた日常の奥に隠れていた、切実な渇きのようなものがあった。俺はそれを茶化す気になれず、ただ黙って聞いていた。
すると牧子さんは、少しだけ視線を上げて、驚くほどあっさりと礼を言った。今夜は救われた、という響きがあった。こちらが戸惑うほど素直で、むしろその率直さに胸をつかまれた。
「たまには、こういうのも悪くないでしょ」
そう笑った彼女は、さっきまでの酔いの影を残しながらも、どこか吹っ切れた顔をしていた。家庭の事情も、長い空白も、簡単に消えるわけではない。それでも、この夜に限っては、互いの寂しさがぴたりと噛み合ってしまったのだと思う。
それからのことは、軽々しく言葉にできない。けれど、あの夜を境に、牧子さんとの距離は確かに変わった。職場では今まで通りの顔をしていても、ふとした瞬間に視線が重なる。何でもない会話の端に、あの夜の温度がよみがえる。
彼女はもう、ただの同僚ではなかった。互いに抱えていた空白を、ほんの一晩で知ってしまったからだ。秘密は重い。だが同時に、妙に甘い。そんな厄介な感覚を残したまま、夜は静かに明けていった。
夫のいない家。眠る子ども。空になったグラス。ソファーの上に残るぬくもり。あの一連の出来事は、今でも鮮明に思い出せる。誰にも言えないまま胸の奥にしまってあるが、あの夜の牧子さんの声だけは、なぜかいつまでも消えなかった。