あの出来事を思い返すと、今でも胸の奥が少しざわつく。怖かった、という言葉だけでは足りない。腹立たしさも、情けなさも、妙に冷静な自分も、全部いっしょくたになって残っている。
当時の私は二十二歳だった。大学はもう辞めていて、昼はバイト、夜は狭い部屋でひとり暮らし。生活は決して楽ではなかったけれど、誰にも干渉されない気楽さもあった。だからこそ、自分の縄張りに誰かが入り込んでくる気配には、すぐに気づけたのだと思う。
最初は、ただの見覚えのある客だと思っていた。駅の近くや自宅のそばのコンビニで、何度も同じ人を見かける。世の中には偶然が多いし、あまり深く考えないほうが楽だ。そう自分に言い聞かせていた。
でも、視線の先にいるその人は、どう見ても偶然の範囲を越えていた。私の帰り道に合わせるように現れ、家の近所をうろつく姿を何度も見かけるようになった。背筋がひやりとした。ああ、これは違う、と。
私はもともと気が強い。泣いてやり過ごすより、先に相手を見返してやりたい性格だった。だから、もし本当に後をつけているのなら、ただ怯えるだけでは終わらせない。こちらが黙っていると思うなよ、という気持ちが先に立った。
駅から自宅までの数分間、私は何度も振り返った。足音の間隔、立ち止まるタイミング、曲がり角での気配。そういう細かな違和感が、ひとつずつ確信に変わっていく。あの人は、やはりついてきていた。
数日後、インターホンの録画にその姿が映った。帽子にマスク。顔は半分以上隠れているのに、立ち方や肩の落ち方で、すぐに同じ人物だと分かった。画面の向こうで妙な動きをしているのを見た瞬間、怒りが込み上げた。気持ち悪さで吐きそうになったのに、同時に、妙に冷えた感覚もあった。
もう、逃げるだけでは終わらせたくなかった。
警察に相談するという選択肢は、もちろん頭をよぎった。友人に話して一緒に動いてもらうこともできたはずだ。けれど、その時の私は、誰かを巻き込むのが面倒だと感じてしまった。今振り返れば危うい判断だったけれど、あのときは自分の手で区切りをつけることばかり考えていた。
そこで私は、ひとつ計画を立てた。外出したふりをして、少し早く部屋に戻る。あとはインターホンが鳴るのを待つだけだ。単純だけれど、相手が本当に来るなら、逃げ道を塞ぐにはそれで十分だと思った。
一日目は来ない。二日目も鳴らない。三日目、四日目も静かなままだった。待つ時間は長かった。気配に耳を澄ませるたび、心臓が無駄に強く打つ。何も起きない夜ほど、神経がすり減るものはない。
そして五日目。ついに、インターホンが鳴った。
画面に映ったのは、やはりあの男だった。いつものように帽子を目深にかぶり、周囲を気にするように立っている。私は深く息を吸ってから、玄関のドアを勢いよく開けた。
相手は完全に不意を突かれたようだった。驚いた拍子にバランスを崩し、こちらを見上げたまま固まる。あまりにも間抜けな顔で、怒りの中に少しだけ冷たい優越感が混じった。
私はその腕をつかみ、逃がさないように引き寄せた。抵抗する力は弱かった。というより、彼は最初からまともに反撃する気力を失っていたように見えた。部屋へ入れた瞬間、彼は勝手に正座して、ひたすら謝り始めた。
「すみません」「もうしません」
その言葉を何度聞いても、私の気は収まらなかった。謝罪が本物かどうかではなく、ここまで来てやっと怯える程度の相手だったことが、余計に腹立たしかったのだ。私は静かに、でもはっきりと、もう二度と来るなと伝えた。
それでも彼は震えていた。警察を呼ばれると思ったのかもしれないし、家族に知られることを想像したのかもしれない。顔は青ざめ、言葉は途切れ途切れだった。私はその様子を見ながら、怒鳴るよりも先に、相手の目をまっすぐ見て話すほうが効くのだと感じていた。
部屋の空気は重かった。散らかったままの生活感、脱ぎっぱなしの上着、薄暗い照明。そんな何でもない部屋の景色が、妙に現実味を増していた。私は彼に向かって、好みの相手を勝手に追いかけても、何も手には入らないと突きつけた。
「あなたが求めているような女は、こんな部屋にひとりで住んで、気の強い男に従うような人じゃない」
そう言ったとき、彼は目を伏せた。反論はなかった。むしろ、どこか納得したような顔をしていたのが印象に残っている。あの瞬間、私は彼がただの加害者ではなく、どうしようもなく幼稚で、空っぽで、自分の欲望の扱い方すら知らない人間なのだと感じた。
私はさらに念を押した。私に近づくな。ほかの女性にも同じことをするな。次はこんなふうには済まない。声は落ち着いていたけれど、内側ではまだ怒りが燃えていた。
彼は何度も頭を下げ、泣きそうな顔でうなずいた。あれほど近所をうろついていた人物が、今は床に視線を落としている。その落差が、妙に現実離れして見えた。人は追い詰められると、こんなにも小さくなるのかと、少しだけ冷めた目で見ていた。
身分証を見せてもらうと、驚いたことに、バイト先の客だと思っていたその男は、私と同じ大学の人間だった。顔見知りの範囲にいたことが分かり、ぞっとした。知らない相手より、知っている顔のほうがずっと怖い。あのときの寒気は、今でもはっきり覚えている。
その後は、説教というより、現実を突きつける時間になった。私が嫌がっていること、やっていることがどれだけ気持ち悪いか、周囲に知られたらどうなるか。彼はしおれたまま聞いていた。途中からは、怒鳴る気力すら抜けていたのかもしれない。
結局、彼は反省した様子で帰っていった。私としては、完全に気分が晴れたわけではない。それでも、あのまま黙って耐えていたら、もっと長く、もっと深く踏み込まれていたはずだ。少なくとも、その流れは止められた。
後になって親に打ち明けると、かなり強く怒られた。そして引っ越すことになった。安心できるはずの場所が、もう安心できない場所になっていたからだ。荷物をまとめるとき、悔しさと情けなさで手が止まることもあった。
今なら、あのやり方が最善だったとは言えない。もっと安全で、もっと確実な方法があったのだろうとも思う。けれど、あのときの私は、ただ怯えて閉じこもるだけでは終われなかった。自分の居場所を守りたい一心で、無茶をした。
振り返れば、危うい綱渡りだった。けれど、あの夜に感じた恐怖と怒りは、簡単に消えるものではない。だからこそ私は、今でもあの出来事を忘れずにいる。怖かった。腹が立った。そして、二度と同じような思いはしたくないと、強く思っている。

あの一件は、私にとって単なる怖い話では終わらなかった。自分の境界線を、どう守るかを考えさせられた出来事だった。たとえ未熟でも、黙って飲み込むだけでは済まない場面がある。そういう現実を、身をもって知ったのだ。