送別会の夜、会議室の空気は最初こそ穏やかだった。退職した私のために開いてくれた席で、テーブルにはピザや缶のお酒が並び、昔話や冗談が次々に飛び交っていた。女性は私を含めて三人、男性は十人。人数の多さに少しだけ身構えたけれど、みんなの笑い声に混じっているうちに、その警戒心はゆっくりほどけていった。
「今日は主役なんだから、遠慮しないで」
誰かがそう言ってグラスを差し出す。私は笑って受け取り、何度目かの乾杯をした。酔いは思ったより早く回った。頬が熱い。声が少し弾む。会議室という場所のはずなのに、いつの間にかここが仕事の延長ではなく、妙に親密な閉じた空間に変わっていくのを感じていた。
その変化に最初に気づいたのは、たぶん私自身だったと思う。隣にいた同僚の男性が、ふいに私の顔を覗き込んできた。距離が近い。そう思った次の瞬間、唇にやわらかな感触が触れた。短いキスだったのに、全身の力が抜けるようだった。お酒のせいだけではない熱が、胸の奥からじわりと広がっていく。
「……だめ?」
そう言われたわけではない。けれど、私は首を振らなかった。振れなかったのかもしれない。目の前の空気が少しだけ甘く、少しだけ危うく、断る理由よりも受け入れてしまう理由のほうが先に立ってしまった。キスはすぐに深くなり、指先は肩へ、背中へと移っていく。誰かの笑い声が遠くで聞こえた。もう、まともに考えられなかった。
その後のことは、輪郭が曖昧だ。何人もの視線が私に集まっていた気がするし、私もまた、その熱に包まれるように身を任せていた気がする。ひとつひとつの行為を冷静に並べることはできない。ただ、触れられるたびに体温が上がり、酔いと興奮が混ざり合って、理性の境目がどんどん薄くなっていったのだけは覚えている。
会議室の蛍光灯は白いはずなのに、その夜は妙に柔らかく見えた。机の上の空き皿、飲みかけのグラス、少し乱れた椅子。いつもの職場の景色が、まるで別の場所みたいに見える。私はその異様さに怯えるより先に、熱に押し流されていた。自分がこんなふうに求める側になるなんて、少し前までの私は想像もしていなかった。
同じ空間では、別の女性も別の男性と距離を縮めていた。言葉より先に呼吸が重なり、視線が交わり、場の空気はさらに濃くなっていく。誰かが止めることもなく、誰かが煽ることもなく、ただその夜の流れに皆が乗っていた。私はその渦の中心にいるのに、どこか他人事のようでもあった。
気がつくと、私はソファに沈むように座っていた。汗ばんだ肌に、冷たい空気が少しだけ心地いい。頭はぼんやりしているのに、体のほうは妙にはっきりしていて、誰かに触れられるたびに反応してしまう。恥ずかしい、と思う気持ちもあった。けれど、それ以上に、もっと欲しいという感覚が勝ってしまった。
「喉、渇いてるだろ」
そう言って差し出された飲み物を受け取る。ひと口飲むと、また体の奥が熱を帯びた。酔いが深まるたび、私は自分の中の抑え込んでいた何かに気づかされる。普段の私は、夫との関係でもどこか受け身で、欲しいと口にすることも少なかった。それなのに、その夜の私は違った。触れられたい、もっと近くにいたい、そう思う自分を止められなかった。
誰に向けた感情だったのか、今でも少し曖昧だ。ただ、あの場にいた人たちの熱気、視線、声、そしてアルコールの匂いが混ざった空気が、私の判断をゆっくり溶かしていったのは確かだ。許可を求める言葉が交わされた場面もあったはずだし、年齢の確認があって、互いに大人としてその場にいることを前提に話が進んでいた記憶もある。だからこそ、あの夜はただの衝動ではなく、妙に現実味のある出来事として残っている。
会議室の時計はとっくに終業時刻を過ぎていた。窓の外は暗く、建物の中だけが妙に生々しい。私は何度も名前を呼ばれ、そのたびに熱を帯びた声で返事をした。気づけば、さっきまでの送別会は形を変え、仕事仲間というより、互いの欲望をそのままぶつけ合う場になっていた。誰が最初にそうしたのか、もう思い出せない。ただ、止まれなかった。
朝が近づくころには、私は力が抜けてソファに横たわっていた。髪も服も乱れていて、汗の乾ききらない肌に夜の名残が貼りついている。周囲ではまだ誰かが笑っていた。空になったグラスがいくつも並び、テーブルの上はすっかり戦場のあとのようだった。私はその光景を見ながら、ひどく恥ずかしいのに、どこか満ち足りてもいた。
「また来てもいいよ」
そんな言葉をかけられた気がする。社交辞令だったのかもしれないし、酔った私の記憶が都合よく残したのかもしれない。それでも、その一言は妙に胸に残った。会社はもう辞めた。なのに、あの会議室の熱だけは、今もふいに思い出してしまう。
家に戻ってからは、何事もなかったふりをした。夫の前ではいつも通りに食卓を囲み、いつも通りの会話をしていた。でも、ふとした瞬間にあの夜の感触がよみがえる。あのときの私は、確かに自分から欲していた。受け身ではなく、求める側だった。そんな自分に驚くたび、顔から火が出るような気持ちになる。
けれど、恥ずかしさと同じくらい、忘れられないのも本音だった。あの会議室で過ごした時間は、理性の外側にある、危うくて濃い記憶として残っている。思い返すたび、胸の奥がざわつく。体まで反応してしまうのが悔しい。なのに、完全には消えてくれない。
私はたぶん、また連絡してしまうのだろう。そう思うと、少し怖い。でも、それ以上に、まだ終わっていない熱が自分の中に残っていることを認めざるを得ない。送別会の夜、会議室で起きたあの出来事は、ただの思い出ではなく、今も私を静かに揺らし続けている。