あのとき、玄関の扉を開けて「どうぞ」と言わなければ、すべては違っていたのかもしれない。
春の家庭訪問。息子の担任としてやって来た佐々木先生は、黒い鞄を脇に抱えたまま、きちんとした態度を崩さなかった。けれど、私にとってその訪問は、進路相談のためだけのものではなかった。先月、どうしても足りなくて、彼に五十万円を借りた。その返済を、今日こそ迫られる。そう分かっていたから、胸の奥がずっとざわついていた。
リビングに通すと、先生はソファに腰を下ろした。出したお茶には手もつけず、まっすぐこちらを見てくる。視線が逃げ道をふさいでくるようで、私は落ち着かなかった。
「お母さん、今日は約束の日でしたよね。返済のほうは、どうなりましたか」
淡々とした声だった。責めるでもなく、慰めるでもない。ただ、答えを求める声。
返せるはずがなかった。パートの収入は家賃や食費、カードの支払いに消えていく。私の生活は、いつも綱渡りだった。指先が冷えていくのが分かった。膝の上で握りしめた手が、震えを隠しきれない。
「……すみません。まだ、半分も……。もう少しだけ、待ってもらえませんか」
言いながら、自分でも情けなくなった。沈黙が落ちる。時計の秒針の音だけが、やけに大きく部屋に響いた。
先生は、しばらく何も言わなかった。やがて立ち上がると、私の隣へ静かに移ってきた。その距離の近さに、息が詰まる。逃げたいのに、足が動かない。
「待つのは構いません。でも、何の見返りもなしというのは、少し違いますよね。世の中、そういうものです」
その言葉の意味を考えるより先に、彼の手が私の脚をつかんだ。布越しでも分かるほど熱い手のひらだった。ぞくりと背筋が震え、私は小さく肩を揺らした。
「……先生、やめ……」
声は途中で途切れた。彼は私の乱れた反応を確かめるように、視線を落とし、ゆっくりと距離を詰めてくる。玄関には、まだ彼の革靴がきちんと揃ったままなのに。そんな現実感のある光景が、かえって異様だった。
抵抗しようとした。けれど、借金という言葉が喉の奥を重くした。私は弱い。生活に追われ、誰にも頼れず、最後に差し出せるものを失いかけていた。
先生の手が、ためらいなく私を追い込んでいく。息が乱れ、頭の中が白くなった。恥ずかしさと恐ろしさがないまぜになり、何が起きているのかを受け止めきれない。それでも、彼の態度は驚くほど落ち着いていた。まるで、最初からこうなると決めていた人のように。
「困っている顔をしていても、身体は正直ですね」
低い声が耳に触れるたび、私は自分の弱さを突きつけられる気がした。お茶菓子を並べたテーブルの向こうで、家庭訪問らしい平穏な空気だけが、取り残されたように見えていた。そのくせ、部屋の中では、もう後戻りできない何かが始まっている。
私は息を飲み、目を閉じた。拒みきれないまま、流れに呑まれていく。先生の指先や視線が、私の理性を少しずつ削っていくたび、胸の奥にあった罪悪感は、別の熱に塗り替えられていった。
それが、間違いだったと分かっている。分かっているのに、止められなかった。
気づけば私は、ソファの上でただの借り手ではなくなっていた。返済を迫るはずの相手に、いつの間にか支配されている。言葉にすれば簡単なのに、現実はもっと湿っていて、息苦しくて、逃げ場がなかった。
先生は、途中で一度も表情を崩さなかった。整った顔立ちのまま、静かな声で、淡々と私の反応を確かめていく。その冷静さが、かえって私を追い詰めた。乱れているのは私だけ。そう思うと、余計に惨めだった。
やがて、部屋の空気が変わった。張りつめたものがほどけ、代わりに鈍い疲労感が残る。私はソファに崩れたまま、しばらく動けなかった。心臓だけがうるさく鳴っている。
先生は何事もなかったように身支度を整え、ネクタイを直した。鞄から出席簿を取り出す仕草まで、あまりに整然としていて、さっきまでの出来事が夢だったのではないかと錯覚しそうになる。
「では、進路の件はまた学校で。残りの返済、忘れないでください」
その一言は、やけに冷たく、そして現実的だった。
玄関で靴を履き、彼は丁寧に頭を下げた。「失礼します」と言う声は、いつもの教師のそれに戻っていた。扉が閉まると、部屋には静けさだけが残った。さっきまで誰かがいた痕跡が、空気の重さとしてまだ漂っている。
私はソファに座り込んだまま動けなかった。自分の身体に残る違和感と、部屋にしみついた気配が、現実をはっきりと示していた。布巾を手に取り、震える指で膝のあたりを拭う。白く濁った痕が、薄く伸びていく。
拭いても、拭いても、消えないものがある。匂いも、感触も、あの静かな声も。何より、私が自分で引き寄せてしまったという事実だけは、どこにも逃がせなかった。

翌日、もし息子が何気なく「佐々木先生、いい先生だよね」と言ったら、私はどんな顔をすればいいのだろう。笑えるはずがない。否定することもできない。胸の奥に沈んだ秘密は、もう以前のような形ではいられなかった。
あの家庭訪問を境に、私の日常は少しずつ壊れていく。表向きはいつもの生活が続いても、内側では何かが確実に変質していた。借金という言葉で始まった関係は、返済の約束だけでは終わらない。私はそのことを、誰よりも分かってしまった。
だからこそ、次に彼が学校で私に会ったとき、私はもう、あの日の私ではいられないのだと思った。