スーパーで声をかけられたのは、たしかに一度きりのはずだった。私は子どもを二人育てる三十代の主婦で、相手は五十代の無職の男。最初は、軽い気持ちの世間話で終わるものだと思っていた。だが、その男は私の拒絶を拒絶として受け取らなかった。
丁重に断ったのに、むしろ「まだいける」と思い込んだらしい。そこから先は、言い逃れのできない執着だった。家が知られ、生活の匂いまで追いかけられるようになった。カーテン越しに室内をうかがわれた気配に、背筋が冷えた夜もある。勤め先の服飾販売店まで把握され、私は日常のあちこちで、その視線を意識するようになっていった。
怖かったのは、ただ付きまとわれることだけではない。過去のことまで掘り返され、若い頃に一度だけしてしまった既婚者との過ちを持ち出されたとき、私は完全に足元を崩された。主人にも、ママ友にも、子どもたちにも、職場にも知られたくない。その一点が、私の逃げ道を塞いだ。
脅しとまでは言い切れない曖昧な言い方で、けれど十分に脅しとして機能する言葉を重ねられ、私は一度だけ会う約束をしてしまった。平日の昼、十二時から十七時まで。たった五時間。たった一度。そう自分に言い聞かせたところで、実際には、その約束がどれほど危ういものか、最初からわかっていた気がする。
会った瞬間から、空気は逃げ場のないものに変わった。男は遠慮というものを知らず、私の反応を確かめるように、じりじりと距離を詰めてきた。やがて連れて行かれたのはホテルだった。断る間もなく、流れを止める言葉も飲み込まされ、私はただ呆然と立ち尽くした。
扉が閉まると、そこから先はあまりに一方的だった。力で押さえ込まれ、身動きが取りにくい状態にされ、衣服は乱暴に剥がされた。冷たさと羞恥が同時に肌を走り、私は必死に抵抗した。嫌だと何度思っても、相手は止まらない。むしろ、その拒絶を楽しむように、執拗に触れてきた。
最初はただ不快で、気持ち悪くて、早く終わってほしいとしか思えなかった。けれど、長く続く接触の中で、身体が思わぬ反応を見せはじめた。頭では拒んでいるのに、感覚だけが別の方向へ引きずられていく。情けないほど戸惑いながらも、私は自分の声が変わっていくのを止められなかった。
触れられるたびに、嫌悪と快感が同じ場所でぶつかり合う。こんなはずではない、と思えば思うほど、逆に敏感になってしまう。少し触れられただけで反応してしまい、濡れていく自分に、強い自己嫌悪が押し寄せた。恥ずかしさで顔を背けても、状況は変わらない。むしろ、逃げ場のなさが感覚を際立たせていった。
さらに追い打ちをかけるように、主人や子どもの名前まで口にされ、私は完全に心を折られた。自分が何をしているのかも、どこまで壊されているのかも、うまく考えられなくなる。背徳感だけが胸の奥で膨らみ、その苦さに飲み込まれるように、私はますます反応してしまった。
その頃には、もう理性で踏みとどまるのが難しかった。放置される時間が長くなるほど、身体は妙に熱を帯び、どうしようもない焦りばかりが募っていく。ようやく動きが与えられると、私は自分でも驚くほど敏感に反応してしまった。
相手の身体は、私にとって不快の象徴であるはずなのに、なぜか妙に合ってしまう瞬間があった。曲がり方の癖が、思いがけず深いところに当たり、逃げたいのに逃げられない感覚を強める。痛みと快感の境目が曖昧になり、私は何度も息を詰まらせた。
抵抗していたはずが、気づけば自分から腰を揺らしていた。止めたいのに止められない。そんな自分がいちばん嫌だった。それでも、身体は正直で、求めるように動いてしまう。相手に支配されているという感覚が、屈辱と同時に妙な高揚を連れてきた。

やがて、私は完全に流されていた。もっと、もっと、と自分でも信じられないほど性急に求めてしまい、背徳感さえ薄れていく。理性が削られ、恥も恐れも、少しずつ輪郭を失っていった。残ったのは、ただ反応する身体と、それを見透かしてくる相手の存在だけだった。
終わったあと、私はしばらく起き上がれなかった。二時間近く、身体が重く、頭もぼんやりしたまま。帰り支度をする気力さえ出ず、結局、予定していた時間よりもずっと遅くなってしまった。外に出たときには、もう夕方の気配が濃く、普段の顔に戻るのに苦労した。
それでも、あの男のことを忘れられない自分がいる。恐ろしかったはずなのに、身体だけは妙に覚えていて、思い出すたびに苦い熱がよみがえる。自分がどれほど愚かだったのか、今でもはっきりわかっている。けれど、その愚かさごと引きずられてしまうのが、いちばん厄介だった。
私はもう二度と関わりたくない、そう思う。けれど一方で、あの曲がり方が合ってしまった感覚だけは、消そうとしても簡単には消えてくれない。嫌悪と依存の境目で揺れながら、また会ってしまうのではないかという自分自身の弱さに、今も怯えている。
家族の顔を思い浮かべるたび、胸が痛む。守るべきものがあるのに、私はあまりにも脆かった。あの一日を境に、何かが壊れたまま戻らない。そう感じながらも、日常は何事もなかったように続いていく。その落差が、いっそう私を苦しめた。
結局のところ、あれは甘い体験談なんかではない。追い詰められ、逃げ場を失い、心も身体も振り回された、忘れがたい出来事だった。なのに、私はまだその記憶を振り切れずにいる。あの男に抱かれたことを思い出すたび、悔しさと熱が同時に戻ってくる。そんな自分を、誰にも見せられないまま。