春の陽気に誘われて、僕は彼女と遊園地へ出かけた。空はよく晴れていたけれど、日差しは思ったより強く、歩き回っているうちにじわじわ汗ばんでくる。ジェットコースターや観覧車も悪くなかったが、二人とも少し疲れてしまって、ひと休みのつもりでお化け屋敷の前まで来た。
入口の前で彼女は、先にトイレへ行ってくると言った。「怖すぎて、途中で変なことになったら困るもん」そう言って、軽い足取りで女子トイレへ駆けていく。その背中を見送りながら、僕は出口から出てくる人たちの様子に目を留めた。
出てきた女性たちは、みんな口々に同じようなことを言っていた。怖かった、驚いた、思っていたより本格的だった。けれど、その中に妙な言葉が混じる。「触られた気がする」「近すぎてびっくりした」「変な仕掛けがあった」――笑いながら話しているものの、どこか引っかかる。
僕は最初、ただの演出だと思った。けれど、何人も続けて似た反応をしているのを見ているうちに、胸の奥がざわついてきた。ここはただ脅かすだけの場所ではないのかもしれない。そう思った瞬間から、彼女が戻ってくるのを待つ時間が、やけに長く感じられた。
やがて彼女がトイレから帰ってきた。僕は何も言わずに、そのまま手をつないで入口へ向かった。彼女は少し緊張した顔をしていたが、それでも僕の指をぎゅっと握り返してくる。その温度が、妙に頼もしかった。
中へ入ると、最初は拍子抜けするほど静かだった。薄暗い廊下に古びた額縁や、人形めいた飾りが並んでいるだけで、いかにもな悲鳴も、派手な仕掛けもない。僕が先を歩き、彼女が少し遅れてついてくる。背後で小さく息をのむ気配がして、振り返ると、彼女はすでに肩をすくめていた。
「あんまり怖くないかも」僕がそう言うと、彼女は強がるように笑った。でも、その声は少し震えている。見栄を張っているのが分かって、僕は思わず口元をゆるめた。
そのまま進むと、天井から何かがぶら下がっていた。薄暗くて、最初はよく見えない。布の切れ端か、飾りの一部か。僕は気づかないふりをして歩き続けた。すると背後で、彼女が短く悲鳴を上げる。
「ひゃっ……何か当たった!」
驚いて振り返ると、彼女は顔を手で押さえながら立ち止まっていた。どうやら、ぶら下がっていた仕掛けが頬に触れたらしい。僕はそれを見て、少しだけ安心した。ちゃんと驚いてくれている。彼女の白い頬がほんのり赤くなっていて、その反応があまりに素直で、胸の奥がくすぐられた。
ところが、次の瞬間だった。彼女の様子が、さっきまでと違う。悲鳴は同じでも、声の震え方が妙に甘く、息が詰まるような混じり方をしている。彼女は顔を押さえたまま、足元をふらつかせた。
僕は何が起きたのか分からず、一歩踏み出した。そのとき、暗がりの上から、逆さまに吊られた人影が見えた。二人いた。さっきまでただの飾りに見えていたものが、ゆっくりと動いている。僕は全身の毛が逆立つのを感じた。
彼らはお化けの格好をしたスタッフだった。しかも、その距離が近すぎる。彼女は怯えたまま立ち尽くし、男たちは彼女の顔のすぐそばで、息を吹きかけるようにしてからかっていた。彼女は嫌がっているのに、逃げるタイミングを奪われたように見えた。
僕は慌てて彼女の手を掴み、引っ張った。彼女は半ば泣きそうな声をあげながら、よろよろと僕の後ろへ下がってくる。出口を探して足を速めると、背後でまた短い悲鳴がした。振り返る余裕もないまま、僕たちは次の暗い通路へ進んだ。
しばらくして、彼女が小さくうめいた。「なんだか変……」その声は、怖がっているというより、戸惑っているように聞こえた。顔色も少し上気している。照明が暗くてはっきり分からないが、息遣いが荒い。
その通路の先には、古い井戸を模したセットがあった。石組みの縁があり、底は見えない。僕が先に覗き込もうとした、そのときだった。彼女が突然、背後から何かに抱き寄せられたように体勢を崩した。
「たっちゃん……」
助けを求める声はしたのに、僕は一瞬、足が止まった。暗がりの中で何が起きているのか判然としない。ただ、彼女の上半身が井戸の縁にかかるように傾き、僕の視界の中で、彼女は必死に腕を伸ばしていた。
彼女は怖がっていた。けれど、それだけではない。息が乱れ、声が途切れ、何かに追い詰められているような、妙に熱を帯びた反応が混じっていた。僕はその違和感に気づきながらも、すぐには動けなかった。
やがて彼女は井戸の縁から引き上げられ、ふらついた足取りで立たされた。顔は真っ赤で、目は潤んでいる。僕は彼女の肩を抱くように支えた。すると彼女は、さっきまでの怯えとは違う、ぼんやりした表情で僕を見上げた。
「なんか……変だよ。すごく変」
その言葉の意味を、僕はまだうまく掴めなかった。ただ、彼女の呼吸がどんどん浅くなっているのだけは分かった。暗闇のせいなのか、恐怖のせいなのか、それとも別の何かなのか。僕の頭の中で疑問だけが膨らんでいく。
そのあとも、通路のあちこちでスタッフらしき影が現れては消えた。驚かされるたびに彼女は声を上げ、そのたびに様子が少しずつおかしくなっていく。最初はただ怖がっているだけに見えたのに、途中からは、恐怖と興奮が入り混じったような、説明のつかない反応になっていた。
僕は彼女を連れて出口を急いだ。もう十分だと思った。これ以上は、ただの悪ふざけでは済まない気がしたからだ。彼女は僕にしがみつくようにして歩き、時おり足元をもつれさせながら、それでも何とかついてきた。
ようやく外へ出ると、明るい光に目が慣れるまで少しかかった。受付の係員が心配そうに近寄ってきて、「大丈夫ですか」と声をかける。僕は思わず詰め寄ったが、係員は首を振った。
この中に、演者は入っていない。そう言われたのだ。
最初は信じられなかった。だが、係員の説明は一貫していた。ここは展示中心の施設で、客を直接触るような演出はしていないという。僕は彼女の顔を見た。彼女も呆然としていた。さっきまでの出来事が、まるで夢だったかのように。
じゃあ、あの手は何だったのか。あの影は、あの声は、あの息づかいは。僕は頭の中で何度も問い返した。誰かが裏口から入り込んだのだろうか。それとも、暗闇と恐怖が見せた幻だったのか。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて小さく笑った。怖かった、というより、まだ整理がつかない顔だった。僕も同じだった。はっきりしているのは、あの場所を出たあとも、彼女の呼吸がなかなか落ち着かなかったことだけだ。
春の午後は、あっという間に別の色を帯びた。さっきまでの明るい遊園地が、今はどこか遠く感じる。僕は彼女の手を握り直しながら、もう一度だけ振り返った。お化け屋敷の入口は、何事もなかったように静かだった。
けれど、あの暗闇の中で見たものが本当に何だったのか、僕はいまでもうまく説明できない。確かなのは、彼女の顔に残った熱と、僕の胸の奥に残ったざらついた違和感だけだった。
それは、ただの怖い体験では終わらなかった。春の日差しの下に戻ってきても、しばらくのあいだ、僕たちは互いに何も言えなかった。あの場所で起きたことを、どう呼べばいいのか分からなかったからだ。
僕はそのまま彼女を連れて園内を歩いた。もう遊具に乗る気分ではなかったし、彼女も同じだったように見える。けれど、彼女の横顔はどこかぼんやりしていて、まだ暗い通路の中に置き去りにされたままみたいだった。
帰り道、僕は何度も彼女の様子をうかがった。彼女は「怖かった」とだけ言い、あとはあまり話さなかった。あれが本当に何だったのか、今でも分からない。だが、あの春の日の記憶は、遊園地の喧騒よりもずっと鮮明に、僕の中に残り続けている。
静かな午後だった。なのに、忘れられない一日になった。