私は三島理恵子、五十三歳。夫は六十三歳で、娘の絵里は三年前に結婚した。婿の広志さんは三十四歳。二人は二駅先のマンションで暮らしていた。
私は背が高いほうではないけれど、若いころから体つきだけは妙に目立った。黒髪を肩まで伸ばし、年齢のわりには肌の張りもあると周囲に言われる。そんな自分の姿を、私はもう何年も「妻」として、そして「母」として、ただ静かに保ってきたつもりだった。
それが、あの日を境に少しずつ崩れていく。
ある日突然、絵里が家に戻ってきた。玄関のドアを開けた瞬間から、機嫌の悪さが顔に出ている。話を聞けば、広志さんと夫婦喧嘩をしたらしい。けれど私には、どうにも絵里のわがままに広志さんが振り回されているように見えた。
夫は夫で、娘に甘かった。絵里が少し涙ぐめば、すぐに肩を持つ。結局、絵里はそのままうちに居座ることになった。
「どうせすぐ帰るでしょう」
最初はそう思っていたのに、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、気がつけば一か月、二か月と経っていた。三か月目に入ったころには、さすがに胸の奥がざわついた。
広志さんは、今どうしているのだろう。食事は?洗濯は?あの几帳面な人が、ひとりでちゃんとやれているのか。
私は迷った末に、広志さんへ電話をかけた。
受話器の向こうの声は、思っていたよりずっと疲れていた。仕事でトラブルが続き、休日出勤も増えているという。もともと家のことは広志さんのほうがよく動いていたらしい。そこへ仕事が重なれば、部屋の中が荒れていくのも無理はない。
コンビニ弁当、外食、片づかない部屋。想像するだけで、胸が痛んだ。
その夜、私は絵里に話した。広志さんがどれほど困っているか、少しは戻るべきではないか、と。
けれど絵里は唇を尖らせて、嫌だの一点張りだった。夫もまた、娘に同調する。むしろ「お母さんが様子を見てきてよ」と軽く言う始末で、私は言葉を失った。
結局、私は土曜日に広志さんのマンションを訪ねることにした。
チャイムを鳴らすと、扉の向こうから広志さんが顔を出した。ひどくやつれて見える。頬はこけ、目の下には薄い影が落ちていた。もともと細身の人だったけれど、今は疲労が骨にまで染み込んでいるようだった。
二DKの室内は、カーテンが閉め切られ、昼だというのに薄暗い。空気は重く、わずかに湿った匂いが混じっていた。リビングのテーブルには、食べ終わったカップ麺やコンビニ弁当の容器が無造作に積まれている。
「広志さん、ずいぶん痩せたわね。今日は私が片づけるから、少し休んでいて」
そう言って私はカーテンを開け、窓を開けた。六月の風が、思った以上にさわやかだった。珍しく湿度も低く、晴れた空から流れ込む風が、部屋のこもった気配を少しずつ押し流していく。
私はエプロンを着けて、まずキッチンに立った。冷蔵庫の中を確認し、買ってきた食材を並べる。昼頃には掃除もひと通り終え、炊きたてのご飯と豚の生姜焼きを用意できた。
「どう? 口に合うかしら」
「はい。久しぶりにお義母さんのご飯を食べられて、嬉しいです」
広志さんは、少し照れたように笑った。その顔を見て、私はほっとした。食事をとる姿は、思ったよりも素直で、どこか子どものようでもあった。
食べ終わるのを待ちながら、私は寝室の片づけに取りかかった。面倒だったので、古いシーツ類は思い切って処分し、家から持ってきた洗いたての寝具で整え直す。掃除機をかけ、ゴミをまとめ、ようやく一息ついたところで、私は小さな異変に気づいた。
ティッシュの束から、かすかに生臭い匂いがしたのだ。
私は一瞬、手を止めた。若い男の部屋では、こういうこともあるのだろう。そう思いながらも、なぜかそのティッシュを拾い上げてしまった。少し湿っていて、妙に重たい。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
自分でも理由のわからないまま、私はその匂いを確かめるように顔を近づけていた。男の気配。広志さんの、まだ消えきっていない生活の痕跡。そう気づいた瞬間、下腹の奥がかすかにざわめいた。
「お義母さん、なにか手伝うこと……あっ」
振り向くと、広志さんが立っていた。私は慌ててティッシュをゴミ袋に押し込んだが、もう遅かったらしい。
「い、いいのよ。絵里には内緒にしておくから」
その言葉が、妙に空気を重くした。
しばらく沈黙が落ちる。エアコンもつけていない室内で、窓から入る風だけがカーテンを揺らしていた。広志さんは何か言いかけて、やめた。その目が、私の顔から首筋へ、そして胸元へと落ちる。
次の瞬間だった。
広志さんが、急に私へ腕を伸ばしてきた。
「えっ、ちょっと……」
驚いて体を引いたのに、もう遅い。背中がベッドに触れ、視界が揺れた。広志さんの息が近い。焦っているのに、どこか必死で、逃げ場を塞がれていく感じがした。
私は何度も「だめ」と言った。母親として、娘の夫相手にこんなことは許されない。けれど広志さんの手は止まらなかった。私の肩を押さえ、息を詰めるようにして距離を縮めてくる。
唇が重なると、頭の中が真っ白になった。
荒い口づけだった。戸惑いも、戸締まりも、理性も、ひとつずつ剥がされていくようだった。私は必死に押し返そうとしたのに、指先にはうまく力が入らない。むしろ、触れられるたびに体の奥が変に熱を持ち、息がうまく続かなくなっていった。
「広志さん、待って……私たち、親子みたいなものなのよ」
そう言ったはずなのに、その声は自分でも頼りなく聞こえた。
広志さんは答えなかった。ただ、私の呼吸の乱れを確かめるように、さらに近づいてきた。服の乱れを整える余裕もなく、私はただ目の前の現実を受け止めるしかなかった。
気づけば、私はベッドの上で、ひどく無防備な姿になっていた。胸元には広志さんの手の温度が残り、触れられるたびに体が細かく震える。こんなふうに扱われるのは、夫と過ごした長い年月の中でも、ほとんど記憶にない。
恥ずかしさがある。怖さもある。なのに、そのどちらとも違う感情が、私の中で静かに膨らんでいた。
広志さんの視線は真剣だった。乱暴なのに、どこか切実で、私を責めるようでも、求めるようでもある。その熱に押されるたび、私は自分が何を望んでいるのか、わからなくなっていく。
やがて、どうにかしてこの場を離れなければという思いだけが残った。私は震える手で身支度を整え、広志さんから少し離れた。
広志さんはその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「ごめんなさい……本当に、すみません」
その声はかすれていた。さっきまでの勢いが嘘のように、ただ疲れ切った男の声だった。
私は何も言えなかった。ティッシュで乱れた痕跡を拭き、急いで服を整えると、逃げるように部屋を出た。振り返ることもできないまま、駅まで歩いた。電車に乗っている間も、窓に映る自分の顔を見ることができなかった。
家に戻ると、幸い夫も絵里もいなかった。私はすぐに服を脱ぎ、洗濯機に放り込んだ。シャワーを浴びながら鏡を見ると、首筋や胸元に、うっすらと赤い痕が残っていた。
それを見た瞬間、現実に引き戻された。
どうして、あんなことになったのだろう。
悔しさと戸惑いが、湯気の中で何度も胸を刺した。私は浴室の壁に手をつき、静かに泣いた。
そのとき、脱衣所の向こうから絵里の声がした。
「お母さん、帰ってたの? 広志くん、元気だった?」
私は慌てて涙を拭った。声が震えないように、できるだけ平静を装う。
「ええ、とっても元気だったわよ」
そう答えた自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
その夜、私は何度も目を閉じた。けれど、眠りはなかなか来なかった。窓の外では、六月の風が静かに揺れている。あの部屋で感じた空気の重さと、広志さんの息づかいだけが、いつまでも肌に残っていた。
私は母であり、妻であり、そして一人の女でもある。そのことを、あの日ほど強く意識したことはなかった。
翌朝になれば、何事もなかったように台所に立ち、夫の朝食を作るのだろう。絵里が何も知らない顔でコーヒーを飲み、広志さんからの連絡を待つことになるのかもしれない。
だが、もう以前と同じ気持ちではいられない。
胸の奥に沈んだ熱は、簡単には冷めそうになかった。
あの部屋で交わされた沈黙も、視線も、触れられた感触も。すべてが、私の中で静かに形を変えはじめていた。
私はまだ、その先のことを知らない。
ただ、あの日から何かが戻れなくなったことだけは、はっきりしていた。