あれを、若気の至りと言うのだろう。
社会人になってから結婚するまでのあいだ、俺は表向きはごく普通の会社員だったが、裏では「出張デートクラブ」のホストのような役回りをしていた時期がある。まだ携帯電話も今ほど普及しておらず、世間と裏の境目が妙にぼやけていた、八〇年代の終わりから九〇年代のはじめ。今なら近寄ることすらためらうような話が、あの頃は案外、平然と人の手から人へ渡っていた。
もちろん、俺には俺の顔があった。昼は会社に出て、夜は酒席に紛れ、余計な素性を見せないまま日常をやり過ごす。そんな二重生活に、若さゆえの妙な万能感が混じっていたのかもしれない。今思えば、少しばかり危うい武者修行だった。
仕事の相手は、主に裕福な有閑マダムたちだった。そして依頼を持ち込むのは、その夫であることが多い。情事の様子を録音し、場合によっては撮影もする。夫公認で、しかも夫が望んでいる。時代が違うと言えばそれまでだが、当時はそんな世界が、確かに人目の届かない場所に存在していた。
ただ、ただ関係を持てばいいわけではない。相手をどう高揚させるか。どこまで理性を崩せるか。後戻りできないところまで気持ちを持っていけるか。そこに、俺たちの仕事としての価値があった。
そんな非日常の入口に、俺を引きずり込んだのは一枚の招待状だった。悪友が、面白半分で持ってきたものだ。
「スワッピング、乱交パーティー」
今なら絶対に近づかない。だが、当時の俺は、半分は自棄、半分は好奇心で、その扉を開けてしまった。そして、そこで彼女に出会った。
あの頃の俺は、かなり荒んでいた。
社会人になってから始まった社内恋愛は、相手の二股不倫が発覚して、最悪の形で終わっていた。女という存在そのものに、少し冷めていた時期でもある。クリスマスイブには、大学時代からの悪友や、彼女のいない連中と新宿のサウナに泊まり込み、夜通し大貧民をしていたくらいだ。女に期待するくらいなら、最初から何も望まないほうが気が楽だ。そんなふうに、半ば本気で思っていた。
だが、俺が女嫌いをこじらせていくことを、妙に心配していた男がいた。秋山秋男。悪友であり、社外のビジネスパートナーであり、そして元カノの実兄でもある。俺の女遍歴も、失敗も、たいていの悪行も、こいつはだいたい把握していた。
年が明けたころ、秋男はいつものように、ろくでもない話を持ち込んできた。
「本当にそんな場があるのか」
「あるって言ってるだろ」
「……聞いたこともないぞ」
「だから面倒くさいっての。ホテルのスイートで、男女が集まって一晩遊ぶ。それだけだ」
今でこそ耳にする機会もある言葉だが、当時はインターネットも一般的ではない。そんな世界の存在を知るには、よほど変な人脈が必要だった。秋男の説明では、男五人、女五人、見知らぬ男女が高級ホテルに集まり、しかもそのうち三組は本物の夫婦だという。
「たまには恋愛なんて忘れて、遊んでこいよ」
秋男は軽く言った。
俺たちの間では珍しくもないことだった。表と裏を行き来しながら、少しだけ普通じゃない仕事をしてきたからだ。だからこそ、こういう話が来ても不思議ではない。むしろ、秋男が持ってくるにはちょうどいい話だった。
十万円。今の感覚でも安くはないが、当時としてはかなりの金額だった。吉原なら特A級の遊びができそうな額を秋男に預け、俺たちは会場になっている渋谷の高級ホテルへ向かった。
「女は五人だっけ」
「ああ」
「今さらだけど、俺、多分一晩に二回が限界だぞ」
「言われなくても知ってる」
秋男は、俺のそういうところをよく知っていた。まともな恋愛以外の女絡みについては、こいつほど俺を理解している男はいない。もちろん、俺も同じくらい秋男を知っている。
「実は、お前にはもう一つ役目がある」
「まだあるのかよ」
「司会だ」
聞けば、要するに場を回す役目だった。合コンの延長のようなものだが、参加者はみな最初からやる気満々らしい。とはいえ、始まるまでが長いと空気が冷える。だから、テンポよく進めてほしいという。
しかも当然のように、俺がメインで、秋男は補助。いつものことだが、納得のいかない配役だった。
「それだけじゃない。女側にも盛り上げ役が二人いる」
「まだあるのか」
「そのうちの一人と、最初に寝室へ入ってくれ。場の火付け役だ」
そこまでなら、まあ分からなくもない。だが、秋男の本題はそこではなかった。
「その女性と時間いっぱい関係を持って、他の男に渡さないでほしい」
「……は?」
「連戦より、そっちのほうがお前は得意だろ」
どうやらその女は主催者側の人間で、本来なら参加させたくない人物らしい。つまり、俺は場を盛り上げるだけでなく、その女を一晩引き留める役目まで背負わされていた。
「おい、ちょっと待て。相手の容姿は?」
俺が真顔で聞くと、秋男はにやりと笑った。
「スレンダーなスーパー美女。四十歳」
「……は?」
俺は年下好きだった。そこは、かなりはっきりしている。四十歳と聞いた瞬間、頭の中でいろいろな期待が崩れた。
「騙したな」
「会ってから文句を言え」
「会ってからじゃ遅いだろうが」
秋男は、楽しそうに肩をすくめた。
「たぶん、お前は騙されてよかったって言うと思うぞ」
十万円は安くない。しかも、実質的に俺の相手はその人ひとりなのだろう。もし、ただの年増の女だったら、後で秋男からきっちり回収してやる。そんなことを心に決めながら、俺は渋々、会場へ向かった。
だが、その心配は、入口をくぐった瞬間に吹き飛んだ。
渋谷の高級ホテルのスイートルーム。禁断の夜の舞台。その中心に、ひとりだけ、明らかに空気の密度が違う女性がいた。
天使、という言葉がまず浮かぶ。けれど、あまりに艶やかで、あまりに危うい。堕天使という表現のほうが近いのかもしれない。息をのんだ。視線が吸い寄せられた。思わず見つめすぎてしまい、気づかれて慌てて目を逸らす。だが、その瞬間に返ってきた微笑みで、心臓が大きく跳ねた。
魂を持っていかれそうな目だった。近づいたら最後、もう戻れなくなる。そんな気配があった。香りまで含めて、ひとつの完成された存在だった。
周囲の女性たちも十分に美しかった。だが、彼女だけは別格だった。もし本当に四十歳なら、この場で最年長のはずなのに、そんなことを感じさせない。むしろ、年齢という概念そのものを軽く飛び越えていた。
そのとき、秋男がこちらを見た。どうだ、騙されてよかっただろう。そんな顔だった。腹は立つ。だが、認めざるを得なかった。これは、十万円どころの価値ではない。
往年の大原麗子を思わせるような、凛とした美しさ。俺は後にも先にも、あれほど美しい女性を知らない。
パーティーが始まると、その女性――ミキさんと名乗った。もちろん本名ではないだろう――の頭の回転の速さに、さらに驚かされた。
最初の自己紹介で、彼女は女性側の司会補助に回り、個人情報を明かせない条件の中で、それぞれの参加者に絶妙な設定を与えていく。現実味があるのに、ちゃんと色気がある。軽すぎず、重すぎず、場の温度を一気に上げる話し方だった。
秋男も、女側のもう一人の司会役である昌子さんも、見事な補助を見せた。昌子さんもまた、かなりの美人だったが、ミキさんの存在感はやはり抜けていた。男側からすれば、どの女性も思わず手を伸ばしたくなるような空気に包まれていた。
簡単なゲームで場を温め、いよいよ本番に入る。
俺がミキさんを連れて寝室のひとつへ向かうとき、背後から刺さるような視線を感じた。男どもからの殺気だ。早く終われ、死ね、そんな声が聞こえてきそうだった。
だが、残念だったな。お前らにチャンスは渡せない。
少し離れた場所で、秋男が小さく親指を立てていた。あの野郎、完全に楽しんでいる。
「来て」
そう言われたら、もう逆らえなかった。
せめてもの抵抗として、いきなりむしゃぶりつかず、唇を確かめるように重ねる。片手はうなじへ、もう片方は鎖骨のあたりへ。ゆっくりと距離を詰めるたび、彼女の呼吸が少しずつ乱れていくのが分かった。
長いキスのあと、ふっと離れた唇から、熱を含んだ吐息がこぼれる。それだけで、こちらの理性が危うくなる。非現実感が、あまりにも濃かった。
俺は自分に言い聞かせた。限度は二回。忘れるな、と。
だが、ミキさんはそんな制御を軽く飛び越えてくる人だった。ガウンの下に触れた瞬間、もう身体は十分に応えていた。指先に伝わる熱が、最初からただの遊びではないことを告げている。
「このまま、来て。ね?」
その一言で、俺の中の何かが決まった。
前戯もそこそこに、ゆっくりと体を重ねる。そこから先は、もう言葉では追いつかないほどだった。
ミキさんの声は決して大きくない。けれど、抑えた声だからこそ、ひとつひとつが深く刺さる。息を呑むたび、肩が震えるたび、こちらの熱も上がっていく。何度も、何度も、彼女は深く反応し、そのたびに表情が変わった。
やがて彼女は、熱の波に呑まれるように、ふっと意識を遠くへやる。だが、それでも終わらない。呼び戻されるたびに、また強く反応し、また沈む。その繰り返しだった。
俺にできたのは、持っているものを全部差し出すことだけだった。昔の恋人たちとの経験も、荒れた時期に覚えた無茶も、あの夜に限っては、すべて彼女のために使われた気がする。
気づけば、俺はただ夢中になっていた。相手が四十歳だとか、年下好きだとか、そんな前提はとっくに消えていた。そこにいたのは、年齢では測れない、圧倒的な女だった。
あの夜のことを、今でも鮮明に思い出す。
渋谷の高級ホテル。閉ざされたスイートルーム。笑い声と熱気と、少しの嫉妬が混ざった空間。その中心で、ミキさんは最後まで、誰よりも美しく、誰よりも危うく、そして誰よりも強く輝いていた。
俺がその夜に得たものが何だったのか、今でもうまく言葉にできない。だがひとつだけ確かなのは、あの瞬間、俺は本気で「女はもういい」と思っていた自分を、少しだけ笑ったということだ。
世の中には、理屈で片づけられない夜がある。
そして、そういう夜ほど、長く記憶に残る。
秋男の顔を思い出すたび、いまだに少し腹が立つ。だが同時に、あの悪友がいなければ、俺はあの夜を知らないままだったのだろうとも思う。人は、ろくでもない縁から、忘れられない景色を受け取ることがある。
そして俺にとっては、あのミキさんがまさにそれだった。闇夜のパーティーの中で、ひとりだけ異質に光っていた女性。彼女の名前を口にするだけで、あのスイートルームの空気まで思い出せる。
今となっては、あれが本当に現実だったのか、少しだけ自信がない。けれど、胸の奥に残った熱だけは、どうやっても消えなかった。
あれは、ただの遊びじゃなかったのかもしれない。
少なくとも、俺の中では、ずっとそうだった。

あの夜の続きを、俺は何年経っても忘れられない。美しさは、時に理屈を壊す。年齢も、立場も、常識も、その前ではあまりに頼りない。
ミキさんは、俺の記憶の中で今もまだ、あのスイートルームの中央に立っている。誰よりも静かに、誰よりも鮮やかに。
そして俺は、あのときの自分を思い返すたび、少しだけ若かった自分に苦笑するのだ。