30歳で転職した先は、地方都市にある拠点だった。正直に言えば、最初はあまり気が進まなかった。前の職場を辞めたばかりで、選べる立場でもなかったから、まずは受け入れるしかないと思った。
配属先の人数はそれなりにいたけれど、年齢層は高めで、周囲は落ち着いた人ばかりだった。そんな中で、隣の部署にいた平田さんは少し違って見えた。35歳。派手さはないのに、どこか若々しくて、顔立ちも整っている。いわゆる「感じのいい人」ではあるけれど、簡単には懐に入れてくれなさそうな、そんな距離感もあった。
口数は多くない。必要なことは話すけれど、それ以上は踏み込んでこない。こちらが少し近づこうとしても、するりとかわされるような、そんな空気があった。私はそのあたりに、妙に惹かれていたのかもしれない。
当時の私は、プライベートでも少し荒れていた。彼氏とは遠距離になってから連絡の回数が減り、気持ちの温度もどこか下がっていた。会えない時間が長くなるほど、関係の輪郭がぼやけていく。そんな状態のまま、仕事だけは淡々とこなしていた。
入社して半年ほど経ったころ、職場の飲み会があった。私は普段、外であまり飲まない。けれど、その日は勧められるままに杯を重ねた。後半になると席の流れが変わり、たまたま平田さんの隣が空いたので、そこに座った。
仕事の話、地元の話、どうでもいい雑談。最初はそれくらいだったのに、気づけば会話は思った以上に弾んでいた。平田さんは相変わらず淡々としているのに、返しが妙に面白い。無愛想というほどではないけれど、愛想だけでごまかさない感じが、逆に印象に残った。
ただ、その日は二次会もなく、あっさり解散になった。帰り道、少しだけ物足りなさが残った。あのときから、私は平田さんのことを以前より意識するようになった。
それから一か月ほど経ったころだった。仕事でミスをしてしまい、残業になった。時計を見ると21時を回っている。ようやく帰ろうとしたとき、まだ平田さんの席に明かりが残っていた。
「お疲れ様です。まだ帰らないんですか?」
何気ないふりをして声をかけると、平田さんは顔を上げて、いつも通りの落ち着いた声で答えた。
「もう少ししたら帰ります。施錠はしておきますよ」
あっさりした返事だった。けれど、私はそこで引き下がれなかった。
「よかったら、ご飯でも行きませんか」
すると平田さんは少しだけ考えるそぶりを見せて、でもすぐに首を振った。
「いや、あと三十分くらいかかるので。この時間から入れる店、少ないでしょう。お気になさらず」
やんわり断られたのに、なぜか私は笑ってしまった。そこで終わるつもりだったのに、口が勝手に動いた。
「○○○○○なら、まだやってますよ」
全国チェーンの店名を出すと、平田さんは少しだけ目を細めた。
「あ、全国チェーンはやってるんですね。じゃあ行きましょうか」
その瞬間の切り替えが妙におかしくて、私はますますこの人に興味を持った。
会社を出てからは、職場で見せる顔とは少し違っていた。会話が増え、思ったよりよく笑う。話してみると、堅そうに見えた印象が少しずつほぐれていった。店を出るころには、もう少し一緒にいたい気分になっていた。
「ちょっとだけ、もう一杯飲みません?」
そう持ちかけると、平田さんは困ったように笑って、また今度にしましょうと言った。そこで私は、かなり無茶なことを言ってしまう。
「じゃあ、家で飲みません?」
自分でも大胆すぎると思った。けれど、そのときの私は、彼氏との関係が薄れ、仕事のストレスも溜まり、少しおかしくなっていたのだと思う。勢いに任せた言葉だった。
「え、まじですか?」
平田さんは本気で驚いた顔をした。それでも、結局は断らなかった。私はその反応だけで、すでに少し浮かれていたのかもしれない。
平田さんの部屋は、想像していたよりずっときれいだった。1Kの部屋は整っていて、物が少ない。散らかっているどころか、生活の気配がきちんと片づけられている。意外さと安心感が同時に来て、私は少しだけ肩の力が抜けた。
お酒を飲みながら、仕事の愚痴や、最近の気分の落ち込みをぽつぽつ話した。平田さんは聞き役に回りながらも、ところどころで短く返してくれる。その距離感が妙に心地よかった。気づけば、体の緊張もほどけて、私はかなり酔っていた。
ふと、平田さんが静かな声で言った。
「彼氏さんがいるのに、男の部屋に上がり込んでいいんですか」
その言葉が、妙に胸に残った。からかわれているのか、試されているのか、それとも本当に心配しているのか。顔を赤くした平田さんを見ていたら、こちらまで熱くなってしまう。
私は返事をする代わりに、そのままキスをした。
酔いもあって、止める理由が見つからなかった。平田さんは一瞬だけ驚いたようだったけれど、すぐに受け入れてくれた。そこから先は、もう流れに逆らえなかった。
一日働いたあとだったので、私はシャワーを借りた。部屋の明かりを少し落とした空間は、さっきまでよりずっと静かで、妙に現実感が薄かった。バスタオルを巻いて戻ると、平田さんもシャワーを浴びていたらしく、しばらくして同じように姿を見せた。
暗い部屋の中でも、目が慣れてくると輪郭ははっきり見える。平田さんの上半身は思っていた以上に引き締まっていて、そのギャップに息をのんだ。普段の控えめな態度と、目の前の体温のある存在感がうまく結びつかない。
ベッドに腰かけた瞬間、平田さんに引き寄せられ、そのまま押し倒された。意外なほど積極的で、私はその変化にまた胸が高鳴る。距離が一気に縮まって、息が近くなる。もう戻れない、と頭のどこかで分かっていた。
キスは深くなり、触れ方もどんどん熱を帯びていった。優しいのに、ためらいがない。丁寧に確かめるような手つきが、逆に強く感じられた。私はされるがままになりながら、ただ夢中でその流れに身を任せていた。
平田さんは、見た目の落ち着きとは違って、こちらの反応をよく見ていた。どこに触れれば強く反応するのか、どのタイミングで力を抜けばいいのか、驚くほど自然にわかっているようだった。私は何度も声を漏らしてしまい、そのたびに自分がどれだけ敏感になっているのかを思い知らされた。
気づけば、私は完全に平田さんのペースに飲み込まれていた。ひとつひとつの動きがやけに鮮明で、酔いの熱と、久しぶりに誰かに強く求められる感覚が重なって、頭がぼんやりする。彼氏との関係ではもう長いあいだ味わっていなかった種類の高揚感だった。
平田さんは、途中で一度も雑に扱わなかった。むしろ、こちらの呼吸や表情を見ながら、静かに、けれど確実に深く踏み込んでくる。その落ち着いた手つきが、かえって私を追い詰めた。逃げる余地がないのに、嫌ではない。そんな感覚が、余計に私を混乱させた。
やがて、私は力が抜けてしまい、ただ平田さんに寄りかかるしかなかった。熱っぽい夜だった。自分が何を求めていたのか、その答えすら曖昧になるくらいに。
終わったあとは、少しだけ話をした。たいした内容ではない。けれど、その短い会話が妙にやさしくて、私はそこで初めて、平田さんの静かな本音みたいなものに触れた気がした。
そのまま眠ってしまい、翌朝、私は平田さんの部屋を出た。外の空気は少し冷たくて、昨夜の出来事が夢だったのではないかと一瞬思ったほどだった。
けれど、夢ではなかった。久しぶりの感覚は、数日経っても体に残っていた。彼氏との距離があること、仕事の疲れが溜まっていたこと、そして平田さんの存在が思った以上に強く印象に残っていたこと。いろいろなものが重なって、私はしばらく落ち着かなかった。
結局、その余韻に引っ張られるようにして、私はまた平田さんに声をかけてしまった。自分でも止められないと思った。あの夜の静かな熱が、まだ胸の奥に残っていたから。
それが、私にとっての最初の一歩だった。
あの夜のことは、今でも少しだけ鮮明に思い出せる。酔いと緊張と、言い訳のような勢い。その全部が混ざって、私はいつもよりずっと無防備だった。
平田さんは、見た目も態度も落ち着いているのに、いざというときは驚くほど踏み込んでくる人だった。そこに私は、どうしようもなく惹かれていたのだと思う。
仕事の顔と、夜の顔。その差が、あまりにも印象的だった。

翌日からも、職場では何事もなかったように時間が流れていった。けれど、私は平田さんを見る目だけが少し変わってしまった。あの静かな夜を知ってしまったから、もう前と同じではいられない。
何も言わずに通り過ぎる日もあれば、ふと目が合うだけで胸がざわつく日もあった。平田さんも同じだったのか、それとも私だけだったのかは分からない。ただ、あの一夜は、確かに私の中で小さくないものを残した。
関係は、そのあともすぐには答えが出なかった。けれど、あのときの私はたしかに、平田さんに惹かれていた。