もう、玄関のチャイムが鳴っても、胸の奥が跳ねることはなかった。
あの音は、今ではただの合図だ。彼が来た、というだけの。私は手を止めずに、シンクの水を止め、布巾で濡れた手を拭いた。
「おばさん、喉乾いた。麦茶ある?」
聞き慣れた声が、遠慮のない足音といっしょにリビングから台所へ流れ込んでくる。マサト君は、もう勝手知ったる様子で家の空気に溶け込んでいた。少し日に焼けた首筋が、扉の向こうからちらりと見える。その肌に、先週私がつけた歯形の痕が、薄く残っているのを見つけたとき、私は何も言わずに冷蔵庫を開けた。
息子はまだ大学だ。夫は仕事で遅い。広い家にいるのは、私と彼だけ。いつの間にか、それが週に三度ほど、決まった時間に繰り返されるようになっていた。最初は偶然だったはずなのに、気づけば「定例」になっている。そんな言い方をすると笑われるかもしれない。でも、私にはそれがいちばんしっくりきた。
「……麦茶、ここに置くわね」
グラスをテーブルに運ぼうとした、その瞬間だった。背中に、いきなり腕が回される。若い男の体温は、思っていたよりずっと熱い。汗を含んだTシャツ越しの熱が、薄いエプロンごと私の背中に押しつけられた。
「おばさん、今日、下着つけてないでしょ。エプロンの下、わかるよ」
耳のすぐそばで囁く声は、年上を敬う響きなんて少しもない。軽くて、乱暴で、ぞっとするほど無防備だった。けれど、その無遠慮さに、私はもう身を固くしなかった。
むしろ、息が浅くなる。乾ききっていたはずの体の奥に、じわりと熱が戻ってくる。年齢のせいだと片づけていた鈍さが、彼の気配ひとつで崩れていく。その崩れ方が、悔しいくらい甘かった。
私は抵抗しないまま、シンクに両手をついた。逃げる気配を見せるより、このまま受け入れたほうが早いと、体が先に覚えてしまっている。
彼は私のスカートを少し乱暴に持ち上げ、慣れた手つきで距離を詰めてくる。指先が触れた瞬間、思わず肩が震えた。ひとつ、ふたつと熱が重なっていくたび、私の中のどこかがほどけていく。
「……っ、マサト君……」
声にした途端、自分でも驚くほど弱々しかった。静かな台所には、衣擦れの音と、浅い吐息だけがやけに大きく響く。窓の外では、近所の子どもたちの笑い声が遠ざかっていくのに、ここだけ時間の流れが違っていた。
彼の手は迷わない。何度も重ねてきたせいで、私の体はもう、触れられるたびに先回りして反応するようになっていた。恥ずかしいほど素直に、熱を求めてしまう。自分でも信じられないくらいだった。
「今日も、すごい顔してる」
その言い方が、ひどく腹立たしいのに、同じくらい胸の奥を焦がす。私は何も返せず、ただ呼吸を乱した。彼はそんな私を見下ろしながら、まるで面白い玩具を見つけた子どもみたいに笑う。その笑みが、妙に悔しい。
「息子に見せたら、どんな顔するかな」
さらりと投げられた言葉に、喉が詰まる。やめて、と言うべきなのかもしれない。けれど、その一言が出ない。代わりに、背中の筋がぴんと張る。秘密が、ひどく濃くなる。
私はシンクにしがみつくようにして、目を閉じた。台所の白いタイル、ステンレスの冷たい縁、麦茶の入ったグラス。どれも日常のはずなのに、彼がいるだけで輪郭を失っていく。いつもの家が、別の場所に変わっていく。
息が乱れたまま、彼は私を追い詰めるように距離を詰めた。若さの熱は容赦がない。こちらの迷いなど、最初から計算に入っていないみたいだった。私はその勢いに押されるように、ただ流されていく。
「……っ、だめ、そこ……」
そう言いながら、ほんとうは止めてほしくなかった。矛盾している。自分でもわかっている。けれど、体は正直だった。彼の荒っぽい手つきに合わせて、奥のほうから熱があふれ出す。
静かなキッチンに、湿った音が重なる。白いエプロンの裾が揺れ、床に落ちる影が少しずつ形を崩していく。私は息を詰め、彼は低く笑う。その笑い声までが、妙に近い。
「こんなに濡れてる。もう、隠せないじゃん」
その一言で、背中をぞくりとしたものが走った。恥ずかしさと快感が、きれいに分かれずに絡み合う。私は顔を上げられない。上げたら、全部見透かされる気がした。
彼は私の腰をつかみ、ためらいなく体を重ねてきた。力の差なんて、最初からわかっていた。だからこそ、抗えないまま受け止めるしかない。その無力さが、今の私には妙にしっくりきてしまう。
一度深く押し込まれるたび、息が途切れる。体の奥を何かが強く叩くたびに、私は自分の名前すら曖昧になっていくようだった。母親であることも、妻であることも、いったん遠くへ押し流される。ただの一人の女として、彼の熱に包まれている。
「……っ、マサト君、……もっと……」
口にした瞬間、もう戻れないと思った。けれど、戻る場所なんて最初から残っていなかったのかもしれない。彼はその言葉を聞くと、満足そうに息を吐き、さらに強く私を追い込んでくる。
シンクの金属がかすかに鳴り、台所の空気は次第に濃く、重くなっていった。熱が積み重なるたび、思考がほどける。私はただ、彼のリズムに引きずられるまま、短く喉を鳴らした。

やがて、彼の息が荒くなり、私の背中に落ちる気配が一段と近くなる。耳元で漏れる声は、もう囁きというより獣じみた熱だった。私はそれを受け止めるしかない。逃げ場はない。逃げたいとも、もう思えなかった。
最後に残ったのは、深く沈み込むような重さと、体の奥に刻まれる熱だけだった。生ぬるい感覚がゆっくりと広がり、私は膝の力を失いそうになる。彼はしばらくそのまま動かず、私の背中に体重を預けていた。
それから、何事もなかったように離れる。あまりにもあっさりしていて、拍子抜けするほどだった。
蛇口がひねられ、冷たい水の音が台所に戻ってくる。彼はコップ一杯の水を飲み、スマホを取り出して、さっきまでの熱を忘れたみたいにゲームを始めた。
「……おばさん、今日の夕飯、何?」
その問いかけは、あまりに普通で、だからこそ残酷だった。私は乱れたエプロンを直しながら、ゆっくり息を整える。股のあたりに残る重みを、キッチンペーパーでそっと拭き取り、丸めてゴミ箱へ捨てた。白い紙に残る痕は、見てはいけないもののようで、でも確かにそこにある。
「……ハンバーグよ。マサト君の好きな」
自分の声が、思ったより落ち着いて聞こえた。まるで最初から、夕飯の献立を考えていただけみたいに。
彼は「へえ」とだけ返し、また画面に目を落とす。私は冷蔵庫を開け、ひき肉と玉ねぎを取り出した。手元は不思議なほど慣れている。肉をこねる、玉ねぎを炒める、塩を振る。そんな当たり前の作業の合間にも、さっきまでの熱がまだ体の奥に残っていた。
指先には、彼の痕跡がまだ薄くまとわりついている気がする。洗っても落ちないものがある、と知ってしまった。台所の匂いは、夕飯の準備の香りと、さっきまでの秘密の残り香が混じって、どこか甘く、少し生々しかった。
私はそれを不快だとは思わない。むしろ、静かに受け入れていた。
母親としての顔も、女としての顔も、もうきれいに分けられない。どちらも私だ。どちらも、ここにある。そう思うと、胸の奥が妙に落ち着いた。
明日も、明後日も、きっと同じように彼は来るだろう。麦茶をねだり、勝手に家へ入り、私を見つけては、当たり前みたいに熱を残していく。そして私は、何事もなかった顔で夕食を作る。
それが、私の暮らしになってしまった。誰にも言えない、濁った水底のような日々。けれど、その泥の中でしか感じられないぬくもりが、確かにある。
私はフライパンに火をつけ、静かに肉だねを並べた。ジュッという音がして、部屋に香ばしい匂いが立ちのぼる。マサト君はその匂いを鼻で追いながら、ソファの上で足を組み直した。
「いい匂い」
その一言に、私は小さく笑ってしまった。たぶん、もう戻れない。けれど、戻りたいとも思わない。台所の灯りの下で、私は今日も彼のために夕飯を作る。そうして、何でもない顔で夜を迎えるのだ。