妻に裏切られ、離婚してからの俺は、ただ空っぽになっていた。欲求はあるのに、気持ちの行き場がない。夜になるたび、ひとりで抱え込むしかなかった。
そんな日々の中で、職場の昼休みは数少ない気晴らしだった。相手をしてくれるのは、パート勤務の喜美さん。年上なのに気取らず、笑うと妙に近く感じる人だった。四十代とは思えない色気があって、何気ない仕草ひとつで視線を奪われる。俺にとっては、ずっと前から心のどこかで意識していた相手でもあった。
その日も、いつものように他愛ない雑談をしていた。仕事の愚痴、休憩室の空気、くだらない冗談。そんな流れの中で、俺はつい本音をこぼした。「最近、ほんとに溜まりすぎててさ。笑うしかないよ」と。冗談めかして言ったつもりだったのに、喜美さんは肩を揺らして笑い、さらりと言った。
「じゃあ、私が相手してあげようか」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。耳を疑う、とはああいう感覚なんだと思う。俺が「本気なの?」と聞き返すと、彼女は少しだけ目を細めて、「本気だよ。私も、ちょっと欲求不満なの」と答えた。その声は軽かったのに、妙に熱を含んでいた。
喜美さんは、以前からどこか危うい魅力をまとっていた。居酒屋で下世話な話になったとき、旦那とは長いあいだレスだと聞いたことがある。家庭では満たされないものを抱えたまま、昼の職場では明るく振る舞っている。そんな影が、彼女をいっそう艶っぽく見せていた。
忘年会の夜のことも思い出す。酔った彼女が、当然のように俺の隣へ座ってきた。周囲のざわめきに紛れるような小さな声で、「ねえ、加藤さん。私としたいって思ったこと、ある?」と聞かれた瞬間、心臓が跳ねた。冗談で流そうとした俺に、彼女はさらに距離を詰め、耳元で囁いた。
「私、旦那とは三年してないの」
その一言で、呼吸が浅くなった。指先が太ももに触れたときの感覚まで、妙に鮮明に残っている。あの夜は何も起きなかった。けれど、あれ以来、喜美さんは俺の中でただの同僚ではなくなった。離婚してからは、ひとりの夜に彼女の吐息やブラウスの隙間から見えた谷間を思い浮かべてしまうことが何度もあった。
だから、その日の昼休みの一言は、ただの冗談では済まなかった。仕事が終わるころには、互いに視線を交わすたび、もう引き返せない空気ができていた。駅前の雑踏を抜け、言葉少なに向かった先はラブホテルだった。
部屋に入った瞬間、張りつめていた糸が切れたみたいに、俺たちは強く抱き合った。最初のキスは乱暴なくらい深くて、唇の熱さがじわじわと体温を上げていく。彼女の呼吸は少し乱れていて、触れるたびに抑えていたものがほどけていくのが分かった。
服を脱がすと、そこにあったのは年齢を忘れさせるような張りのある身体だった。子どもを産んでいないこともあるのか、形の整った胸はやわらかく、それでいて頼りない感じはまるでない。彼女は恥じらいを見せながらも、こちらを見上げる目だけは真っ直ぐで、その視線にこちらの理性が焼かれていく。
触れれば、反応はすぐに返ってきた。熱を帯びた声、指先の震え、息を呑む気配。彼女は俺の腰に腕を回し、逃がさないように抱き寄せる。長く我慢してきたものが、互いの間で一気にあふれ出していくようだった。
やがてベッドに沈み込むように倒れ込むと、部屋の空気まで濃く感じられた。シーツの白さ、薄暗い照明、窓の向こうの街の灯り。そうしたものが全部、妙に現実感を奪っていく。喜美さんは小さく笑って、でもその笑いにはもう余裕がなかった。
「こんなふうになるなんて、思わなかった」
そう言った声は震えていた。俺も同じだった。離婚で失ったもの、埋められなかった寂しさ、誰にも言えなかった欲望。その全部が、今この部屋の中で形を持ってしまった気がした。
その夜の出来事は、ただの勢いでは片づけられない重さを持っていた。俺にとっては、失ったものの穴を埋めるような時間であり、喜美さんにとっても、長く抱えてきた渇きを少しだけ潤す瞬間だったのかもしれない。
別れ際、エレベーターの中で彼女はふっと笑った。さっきまでとは違う、どこか甘くて危うい表情だった。そして耳元で、またあの調子で囁く。
「また溜まったら、いつでも呼んで」
その言葉に、俺は何も返せなかった。ただ頷くしかなかった。扉が開き、彼女が夜の街へ消えていく背中を見送ったあとも、胸の奥には熱が残り続けていた。
あれから、俺の夜は少しだけ変わった。ひとりで過ごす時間の寂しさは消えていない。それでも、あの夜の温度を思い出すたび、もう一度生きている気がする。喜美さんとの関係がこの先どうなるのかは分からない。けれど、あの一夜が俺にとって特別な転機だったことだけは、はっきりしている。