約四年前のことだった。バイト先で顔を合わせることが増えていた人妻のHMさんと、仕事終わりに言葉を交わすたび、少しずつ距離が縮まっていくのを感じていた。最初はただの同僚だった。だが、あの人の声は妙に耳に残り、ふとした仕草に目が止まるようになっていた。
そんなある日、電車の中で騒ぎが起きた。最初は周囲のざわつきの理由が分からなかったが、通路の向こうで数人の男が連れて行かれ、乱れた服のまま床に座り込む女性の姿を見たとき、ただ事ではないと悟った。人波の切れ間から見えたその横顔に、息が止まった。HMさんだった。
ホームへ出ていく彼女の背中を、思わず追いかけた。震えるような足取りで近づき、「大丈夫ですか」と声をかけた瞬間、彼女は顔を伏せるようにして、その場から逃げるように立ち去ってしまった。あのときの沈黙は、今でも忘れられない。声をかけたのに、何も届かなかったような気がして、胸の奥が妙にざらついた。
それでも、その出来事をきっかけに、バイトのあと二人で話す時間が増えた。仕事の愚痴、家のこと、どうでもいい冗談。そんな何気ない会話が積み重なるうちに、彼女はただの「職場の人」ではなくなっていた。年齢差なんて、気にしていなかったはずなのに、いつの間にかHMさんのことを強く愛おしいと思うようになっていた。
やがて、彼女は一人暮らしのアパートに来て、家事を手伝ってくれるようになった。食卓に並ぶ温かい料理や、整えられた部屋の空気は、それだけで安心できた。そこにいると、帰ってきたという感覚があった。誰かに世話を焼かれることに慣れていなかった俺には、そのやさしさがまぶしかった。
その頃になって、HMさんが歳の離れた相手と結婚していて、子どもが二人いる四人家族だと知った。思っていたよりもずっと重い現実が、急に目の前へ置かれたようだった。年齢差は四つか五つくらいだと思い込んでいたのに、彼女はもう母親だった。その事実に驚きながらも、不思議と気持ちは引かなかった。むしろ、知れば知るほど離れがたくなっていった。
関係が始まってからは、もう後戻りできなかった。理屈ではいけないと分かっていても、会えば会うほど求めてしまう。抱きしめれば熱が伝わり、言葉を交わせば心がほどけていく。互いの寂しさを埋めるように、何度も寄り添った。相性が良かったのだと思う。年月が過ぎても、その感覚は鈍らなかった。
社会人になってからも、関係は細く長く続いた。忙しさに追われる日々の中でも、彼女と会う時間だけは特別だった。何年たっても、会えば体温が戻ってくる。そういう相手は、そう多くない。だからこそ、いつまでも続くものだと、どこかで信じていたのかもしれない。
だが、ある日突然、その糸は切れた。理由を聞いても、彼女ははっきりとは答えなかった。ただ、「こんなおばさんじゃなくて、あなたには若い女性が似合う」と繰り返すばかりだった。こちらが何を言っても、もう届かない。納得できないまま、連絡は途絶えた。
別れを受け止めるには、あまりにも時間が必要だった。頭では終わったと分かっていても、心が追いつかない。仕事にも身が入らず、気づけば生活は荒れていた。自分でも情けないと思いながら、止め方が分からなかった。失ったものの大きさだけが、やけに鮮明だった。
やがて、HMさんを思い出してしまう場所から離れたくなった。そんなとき、遠くで暮らす友人が声をかけてくれた。逃げるような転居だったけれど、その土地で就職し、がむしゃらに働くうちに、少しずつ呼吸がしやすくなっていった。忙しさは、傷を完全には消さない。それでも、余計なことを考える時間を減らしてくれた。
その後、独立する流れになり、自分で会社を立ち上げた。すると、元の会社で採用されたばかりだった数人の部下が、一緒に働いてくれることになった。新しい環境は手探りだったが、以前よりもずっと前を向いていた。過去を振り返るたびに胸は痛んだが、それでも日々は進んでいく。

ある日のこと、元の会社からついてきてくれた女の子に告白された。驚いたが、気持ちは真っすぐだった。彼女の誠実さに触れるうち、俺も自然と受け入れるようになり、交際を始めた。そして、そのままプロポーズすることになった。
彼女のことは前からよく知っていた。以前住んでいた土地の出身で、父親は病気で亡くなり、家族で母親の実家があるこちらへ移ってきたことも聞いていた。過去に背負ってきたものは違っても、今を一緒に生きようとしている姿は、まっすぐで頼もしかった。
HMさんとの日々は、たしかに激しく、忘れがたいものだった。あの別れがなければ、今の自分はいなかったかもしれない。だが、失ったあとに残るものもある。痛みも、後悔も、そして次に進むための力も。過去は消えない。それでも、人は別の明日を選べるのだと、ようやく分かるようになってきた。