僕が学生だったころ、体力だけには妙な自信があった。だから、時給のよさに惹かれて引っ越しのアルバイトを続けていた。汗まみれになって家具を運び、段ボールを積み上げ、終わったあとに飲む冷たい水がやけにうまい。そんな夏の日、僕は四十代くらいに見える佐々木さん夫妻の引っ越しを手伝うことになった。
その家にいた奥さんは、最初から少し印象的だった。旦那さんは仕事の都合で不在、高校生の息子さんも学校で、現場にいたのは僕ら業者四人と奥さんだけ。暑さのせいもあってか、奥さんは薄手の服で動き回り、ふとした瞬間に胸元がのぞきそうになる。僕は目のやり場に困りながらも、どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
午前中のうちに荷物を積み終え、僕らは新居へ向かった。そこでまた、奥さんの姿に目を奪われることになる。汗をかいたから着替えたのか、今度はショートパンツ姿だった。脚の動きがやけに生々しく、周囲の男たちもつい視線を向けてしまう。本人は気にした様子もなく、淡々と荷物の確認をしていたが、その無防備さがかえって妙な緊張を生んでいた。
しかもその新居は、僕のアパートからそう遠くない場所だった。偶然にしては出来すぎている。引っ越しが終わってからも、近所でまた会うかもしれない。そんな考えが頭から離れず、胸の奥がざわついた。
その予感は、思ったより早く現実になった。数日後、近所のコンビニで奥さんを見かけたのだ。向こうもすぐに僕に気づいた。「あら、君、この前の……」と、親しげに声をかけてきた。あのときのショートパンツとは違い、今日は夏らしい軽いワンピース姿だったが、生地が薄く、体の輪郭がふわりと浮かぶようだった。
僕は挨拶を返すだけで精いっぱいだったのに、奥さんは妙に距離が近い。買い物袋を下げたまま、笑みを浮かべて「お礼をしたいから、うちへ寄って」と誘ってきた。断る理由も見つからず、僕はそのまま家へ向かった。今思えば、あの時点で僕はすでに巻き込まれていたのかもしれない。
家の中は静かだった。奥さんは冷たい飲み物を持ってきて、僕に差し出した。その瞬間、わざとだったのか、グラスの中身が僕の膝から下へこぼれ落ちた。冷たさに驚いて身を引くと、奥さんは「あらあら、大変。すぐ洗わないとね」と、妙に落ち着いた声で言った。
言われるままズボンを脱ぐことになり、僕は下着姿になった。けれど布はすでに濡れていて、奥さんはそれを見て、くすりと笑った。恥ずかしさと戸惑いで頭が真っ白になる。僕がどう反応していいかわからないでいると、奥さんはためらいなく距離を詰めてきた。
手つきはやわらかかった。からかうようでもあり、甘やかすようでもある。僕は混乱しながらも、次第にその流れに飲み込まれていった。奥さんの髪からは、洗剤なのか香水なのか、柔らかい匂いがした。それが妙に頭に残って、理性をさらに鈍らせる。
やがて僕は、もう引き返せないところまで来ていると感じた。奥さんは僕の様子を見ながら、まるで当然のように受け止めていた。何かを試すような目つきで、でも責めるわけでもない。その曖昧さが、かえって危うかった。僕は自分の中で抑えていたものが崩れていく感覚を、はっきり覚えている。
その夜は、結局そのまま奥さんの寝室へ通されることになった。窓の外では夏の虫が鳴いていて、部屋の空気は重く、どこか現実感が薄かった。僕はただ、流されるようにそこにいた。終わったあと、奥さんは何事もなかったような顔で、落ち着いた声を出した。
「溜まったら、いつでも来ればいいよ」
その言葉は冗談とも本気ともつかず、僕はうまく返事ができなかった。けれど、それで終わりではなかった。数日後、また呼ばれ、何度か顔を出すうちに、僕はその家に出入りすることに慣れてしまった。奥さんは気さくで、妙に距離感が近く、こちらが戸惑うほど自然に接してくる。
さらに驚いたのは、「友達も連れておいで」と言われたことだった。僕は半信半疑のまま親友二人を誘い、三人でその家へ向かった。奥さんは最初こそ笑って迎えたが、すぐに場の空気を支配するような勢いを見せた。声を上げ、身体を震わせ、男たちの反応を楽しむような様子すらあった。
帰り際には、なぜか全員に小遣いまで渡してきた。そして一人ずつに軽く口づけをして、「また来てね」と笑った。僕らは冗談のように受け取っていたが、どこかで、これは普通の関係ではないと感じてもいた。
ところが、しばらくすると奥さんの姿を見かけなくなった。最初は外出でもしているのだろうと思っていたが、何週間たっても会わない。気になった僕は、思い切って旦那さんに声をかけた。引っ越しの時に手伝った者だと名乗ると、旦那さんは一瞬だけ表情を曇らせ、それから重い口調で言った。
「家内は、今は入院しています」
予想もしない答えだった。僕が病気なのかと尋ねると、旦那さんは言いにくそうに目を伏せた。「精神科です。病名は、色ボケだと聞かされています」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが冷たくなった。あのときの奥さんの言動、妙に大胆で、どこか切羽詰まったような振る舞い。すべてが、ただの気まぐれではなかったのかもしれない。僕は怖くなった。自分が巻き込まれていたものの正体を、ようやく少しだけ理解した気がした。
それから二年が過ぎた。奥さんは退院し、家へ戻ってきた。だが、その姿は以前とは違っていた。乳飲み子を抱えて帰ってきたのだ。入院中、男性看護師と関係を持ち、子どもができたという。旦那さんは完全に打ちのめされていた。家の空気は重く、誰もが目を合わせるのを避けているようだった。
僕はお見舞いに行った。すると奥さんは、以前と変わらない調子で僕の顔を見るなり、妙に甘えた声で同じ言葉を繰り返した。「チ〇ポ、チ〇ポ」――その場にいる全員の空気が凍りついた。旦那さんは僕を見て、何かを察したようだった。「君は、家内と関係があったのか」と、低い声で尋ねてきた。
僕は逃げられなかった。結局、過去のことを認めるしかなかった。謝る僕に、奥さんはさらに近づいてきて、あの頃と同じような目をした。旦那さんは、信じたくないものを見てしまったような顔で立ち尽くしていた。
その後、奥さんは正式に退院という形にはならなかった。症状が落ち着く見込みが薄く、病院側もこれ以上の入院継続は難しいと判断したらしい。職員との関係が問題になり、強制的に外へ出されるようなかたちになったと聞いた。家に戻ったあとも、彼女の言動は不安定なままだった。
夜になると、近所が寝静まったころ、あの家から奥さんの声が聞こえることがあった。誰かを呼ぶような、甘えるような、落ち着かない響きだった。家の前を通るたび、僕は足を速めた。あの夏の軽い出来事のつもりだったものが、いつの間にか、後味の悪い記憶として僕の中に残り続けていた。
今でも思う。あの時の僕は、若さと好奇心に飲まれすぎていたのかもしれない。けれど、あの家で起きていたことは、ただの艶っぽい思い出では済まされない、妙に重い影を持っていた。夏の匂いと、湿った空気と、奥さんの笑い声。その全部が、今もどこかでひっそりと蘇る。