「こんにちは、ゆきさん」
スタジオの扉が開くと、いつもの明るい声が入ってきた。都内の住宅街にある三階建ての一軒家。そこを改装して作った個人レッスン用の空間は、外から見ればただの上品な邸宅に見えるだろう。だが中身は違う。打席、パター練習のスペース、バーチャルゴルフの設備まで揃えた、半ば趣味、半ば仕事場のような場所だった。
「お疲れさまです、コーチ。先日のゴルフ、かなり良かったです」
ゆきは弾んだ声でそう言い、少し悔しそうに唇を尖らせた。
「最後のパットだけ外しちゃって。ベストスコア、あと一歩だったんです」
「それは惜しかったですね。でも、かなり近いところまで来ています。年内に更新できる可能性は十分ありますよ」
「本当に? それ、コーチのおかげです」
彼女は嬉しそうに笑った。スイングの癖も、集中力の波も、もうだいぶ掴めている。最初に来た頃のぎこちなさは薄れ、今ではフォームだけ見れば、かなり見栄えのする打ち方になっていた。
俺はこの仕事で生活しているわけじゃない。むしろ、生活の心配はほとんどない。叔父が残していった都内の不動産と、いくつかの投資用物件がある。金に困らないなら、無理に気を使う必要もない。だからこそ、レッスンは遠慮なくやれたし、気に入った客には少し踏み込んだ距離感で接することもできた。
最初は、そんなやり方で本当に人が来るのか半信半疑だった。けれど、実際には予想以上に評判がよかった。厳しく教えるのに、妙に居心地がいい。そういう評判が広がったのか、今では「ここなら上達できる」と思って来る客が増えていた。
「今日はどうしますか。前回コースに出たなら、今日は練習中心でもいいですし、バーチャルでコース攻略の流れを確認してもいい」
「できれば、バーチャルゴルフで回りたいです。実際のコースみたいに緊張感があるので」
「いいですね。では、そのつもりでいきましょう」
ゆきはゴルフバッグを端に置き、軽くストレッチを始めた。細い肩がしなやかに動く。普段の会話では少し甘えたところがあるのに、クラブを握ると表情が変わる。その切り替えが面白かった。
「コーチに言われた通り、私ってたまに集中が切れるんです。そうなると、妙なミスをしちゃって」
「スイング自体は悪くないです。だからこそ、スコアを伸ばすには気持ちの置き方が鍵になります。雑念が入ると、最後の一打で崩れる」
「……もし、また変なショットをしたら、ちゃんと叱ってくれますか」
その言い方には、少しだけ期待が混じっていた。
「もちろんです。今日は少し厳しめにいきましょうか。早くベストを更新してほしいので」
「はい……お願いします」
バーチャルゴルフの画面が立ち上がる。最初の数ホール、ゆきは驚くほど安定していた。ティーショットはまっすぐ伸び、アイアンもよく止まる。ナイスショットが続くたび、彼女の表情は少しずつ明るくなる。
「好調ですね」
「はい。今日はいい感じです」
「その調子です。ミスを恐れすぎないこと」
「わかってます。……でも、緊張すると、急に変な球が出ちゃうんですよね」
「そこを我慢できれば、かなり変わります」
レッスンは真面目だった。そこだけは誤解されないようにしている。飲み会に誘われても、適当に流されることはないし、ダメな打ち方ははっきりダメだと言う。遠慮はしない。辞めたければ辞めればいい。そう思っているから、言葉にも迷いがなかった。
「ラフからのショットは、まず無理に飛ばさないことです。クラブを寝かせすぎると、余計に抜けが悪くなります」
「うん、うん……」
「斜面では体が流れやすいので、下半身を先に安定させる」
「試しに、打ってみます」
バシッ、と乾いた音が響いた。球は画面の中で素直に飛び、フェアウェイに戻る。
「いいですね。今の感覚、忘れないでください」
「……」
「どうしました?」
「今日は、変なショットをしなくて、ちょっと寂しいなって思って」
ゆきはそう言うと、ふいにこちらへ寄ってきて、腰に腕を回した。軽い抱擁だったが、体温ははっきり伝わる。
「ゆきさん、最後までちゃんとやりきりましょう」
「……はい」
終盤に差しかかった頃、少しだけ空気が変わった。集中は保っているのに、どこか浮ついた気配が混じる。そういう時は、たいてい一度崩れる。
案の定、次のショットで小さなミスが出た。芯を外した、ほんのわずかな乱れだったが、本人には大きな失敗に感じられたのだろう。
「ゆきさん、集中って言いましたよね」
「ごめんなさい……」
「これは、しっかり反省してもらいます」
彼女は少し伏し目がちになり、素直にうなずいた。こういう時のゆきは、妙に従順だった。叱られることすら、どこか安心材料になっているのかもしれない。
「そのスカート、少し上げてください」
「……はい」
ゆきはクラブをバッグに立てかけ、こちらへ向き直ると、恥ずかしそうに服の裾を整えた。頬がほんのり赤い。視線を合わせると、照れたように笑う。
「今日は、薄いピンクにしました。コーチが見たら、少しは喜ぶかなと思って」
「そういう気遣いは嬉しいですね」
近づいて抱き寄せると、彼女は小さく息をのんだ。怒っているふりをしていても、こういう距離になると、もう空気は別のものに変わる。
「ただ、せっかくゴルフをしているんです。もっと上手くなってほしい」
「……はい」
「次からは、失敗のたびに罰を受けるんじゃなくて、上手くできた時に褒める形にしましょうか」
「そっちのほうが、嬉しいです」
「今日は特別です。ミスしたぶん、ちゃんと反省しましょう」
見つめ合ったまま、短い口づけを交わす。最初は控えめだったのに、すぐに熱が増した。ゆきの指先が服をつかみ、呼吸が近くなる。甘えた声が喉の奥で震えた。
「時間、まだ大丈夫ですか」
「問題ありません。今日は少し長めでも平気でしょう」
彼女は安心したように目を閉じた。そこから先は、言葉よりも距離がものを言う時間だった。肩を寄せ、体温を確かめ、何度も名前を呼ぶ。叱るようでいて、結局は甘やかしている。そんな曖昧な関係が、いつの間にか二人の間に自然と根を張っていた。
やがてレッスンは終わりに近づいた。最後は、軽く身支度を整えながら、今日の反省点を一つずつ確認する。フォームの修正、リズムの維持、そして何より、集中を切らさないこと。
「今日の内容、ちゃんと覚えておいてください」
「はい。次は、もっと良くしたいです」
「その意識があれば大丈夫です」
帰り支度を終えたゆきは、玄関の前で少しだけ立ち止まった。
「コーチ」
「はい」
「ベストスコアを更新したら、特別なご褒美、もらえますか」
その目は、冗談半分、本気半分だった。
「もちろん。考えておきます」
ゆきは満足そうに笑うと、次の予約を入れて帰っていった。静かになったスタジオで、俺はしばらく扉のほうを見ていた。上達したいという真っすぐな欲と、甘えたい気持ち。その両方を抱えたまま通ってくる彼女は、たぶん次もまた、期待を胸にここへ来るのだろう。
そして俺も、それを少し楽しみにしている。