大学の図書館は、いつもより少しだけ静かだった。
午前の講義が終わり、午後の授業が休講になったその日、私はひとりでキャンパスを歩いていた。予定はない。やることもない。なのに胸の奥だけが妙にそわそわしていて、理由のない高揚感がじわじわと広がっていくのを感じていた。
そのとき頭に浮かんだのが、図書館だった。人目がありそうで、でも騒がしくはない。誰かに見つかるかもしれない。けれど、見つからないかもしれない。その曖昧さが、私にはたまらなく刺激的だった。
その日は白いブラウスに、紺のプリーツスカート。丈は少し短めで、歩くたびにひらりと揺れる。足元は白のニーハイソックス。制服みたいに清楚で、けれどどこか隙のある格好だった。下には淡いピンクのレースの下着をつけていた。透け感のある、少しだけ背徳的な気分になるものだ。
お昼を済ませてから、午後の授業が始まるころを見計らって図書館へ入った。人が減っている時間を狙ったつもりだったけれど、あまりに静かな空間に足を踏み入れた瞬間、逆に自分の鼓動がはっきり聞こえる気がした。
まずは本を探すふりをしながら、周囲を見回した。図書館は三階建てで、上の階ほど専門書が多く、人も少ない。できるなら三階がいい。そう思ってエレベーターに乗り、最上階へ向かった。
フロアを一周すると、学生は三人ほどしかいなかった。その中に、ひとりだけ少し気になる男の子がいた。机に本とノートを広げ、真面目に勉強している。眼鏡越しの横顔は静かで、いかにも大学生らしい落ち着きがあった。
私はその子の近くの棚で、わざと立ち止まった。どうやって声をかけようか、考えながら視線を巡らせる。そのとき、高い棚の本を取るための脚立が目に入った。
――これを使えば、自然に近づける。
そんなふうに思いついたのは、一瞬だった。
私は脚立を彼のそばまで運び、控えめな声で話しかけた。
「あの、すみません。今ちょっとお時間ありますか?」
彼は顔を上げて、少し戸惑ったように答えた。
「はい、大丈夫ですけど……何か?」
「よかったです。あの棚の上の本を取りたいんですけど、脚立が少し揺れそうで。下で支えてもらえませんか?」
「あぁ、わかりました。大丈夫ですよ」
素直な返事だった。私は軽く礼を言い、彼が脚立を押さえてくれているのを確認してから、ゆっくり一段目に足をかけた。
「降りるまで、お願いします」
「わかりました。気をつけてくださいね」
その声は思ったより近くて、少しだけ耳に残った。
私は一段ずつ上がっていく。わざとスカートの裾が揺れるように、少し姿勢を変えながら。上まで登りきると、足をほんの少し開き気味にして立った。下から見上げれば、何が見えるかはもうわかっていた。
完全に、見えてしまう。
そう思った瞬間、背中の奥がぞくりとした。
彼が見ているのか、それとも慌てて目を逸らしているのかはわからない。けれど、その曖昧さがかえって私を熱くした。自分の姿を見られているかもしれない、という感覚だけで、体の内側がじんわりと熱を帯びていく。
私は少しだけ振り返り、彼の顔を確かめるように言った。
「欲しい巻が抜けているみたいで、もう少し探してみます。あと少しだけ、押さえていてもらえますか?」
彼は一瞬だけ目を見開き、慌てたように視線を逸らした。
「は、はい。大丈夫です。ゆっくりでいいですよ」
その反応で、見られていたことがはっきりした。
嬉しかった。単純に、すごく嬉しかった。
私は適当に本を手に取って、もう十分だと判断したところで脚立を降りることにした。
「降りますね」
「はい、気をつけてください」
最後の段で、わざと足元を乱したふりをした。ほんの少しだけ体のバランスを崩して、彼の胸元に軽く寄りかかる。ほんの一瞬だったのに、その短い接触が妙に長く感じられた。
彼の体温が伝わってくる。息をのむ気配もわかった。
「あっ……」
「あっとと」
私を受け止めた彼の腕はぎこちなくて、でも真剣だった。その距離の近さに、私はますます顔が熱くなっていくのを感じた。彼の下半身がはっきりと反応しているのも、抱き寄せられるような形になった瞬間に伝わってきた。
――ああ、ちゃんと動揺してくれてる。
それだけで、胸の奥が甘く疼いた。
「大丈夫ですか?」
「は、はい。ごめんなさい、急に……」
私は何事もなかったように脚立を戻し、彼の前から離れた。けれど、内側ではもう落ち着いていられなかった。スカートの下がじっとり熱くなっているのがわかる。静かな図書館の空気の中で、自分だけが少しずつ壊れていくようだった。
棚のあいだの死角に入ると、私はそこでしばらく身を潜めた。誰にも見えない場所で、こらえきれなくなった熱を自分の手でなだめる。声を殺すのがかえって苦しい。静けさの中に小さな吐息が混じるたび、背筋が震えた。
図書館はあまりにも静かで、その静けさが私には余計に刺激的だった。音を立ててはいけない。見つかってはいけない。そんな緊張が、かえって感覚を鋭くしていく。
しばらくして落ち着くと、私は少しだけ整えてから、さっきの席へ戻った。彼はまだ机に向かっていた。私は今度は後ろからではなく、自然なふりをして隣に座る。
「隣、いいですか?」
「え? あ、はい。どうぞ」
近くで見ると、やはり少し照れたような顔をしていた。私は小さく笑って、さっきのお礼を口にした。
「さっきはありがとうございました。お名前、聞いてもいいですか?」
「あぁ、いえいえ。そんな大したことじゃ……僕は吉崎純です」
「一年生?」
「はい、まだ一年です」
「じゃあ、私と同じだね。純くん、でいい?」
「はい。ゆりちゃん、でいい?」
「うん。よろしくね」
そのやり取りだけで、空気が少し柔らかくなった気がした。私は彼の反応を楽しむように、わざと少しだけ距離を詰める。
「ねえ、純くん。さっき、私のこと見てた?」
「え……その……」
言葉に詰まる彼が、なんだか可愛かった。私はさらにいたずらっぽく続ける。
「当てられたら、もう一回だけいいことしてあげようかな」
「え、本当に?」
「たぶんね」
彼は少し考えてから、照れたように答えた。
「……ピンク、だった、かな」
「やっぱり見てたんじゃん」
私は笑って、彼の手をそっと取った。
「責めないよ。むしろ、ちゃんと見てくれてうれしい」
そのまま彼の手を自分の太ももに置き、ゆっくりと導く。純くんの指先はおそるおそる動き、私のスカートの内側へと近づいていった。彼の呼吸が浅くなるのがわかる。
途中で、彼は何かに気づいたように動きを止めかけた。私は耳元に顔を寄せて、小さく囁く。
「純くん。実はね、今日は下に何もつけてないの」
彼の目が、驚いたように揺れた。
その反応が、たまらなく愛おしかった。
「……ほんとに?」
「うん。だから、確かめてみて」
足を少し広げると、彼の指はためらいながらも、ようやく奥へ進んでいった。触れられた瞬間、私の肩が小さく跳ねる。
「っ……」
「ごめん、痛かった?」
「ううん。もっと、ゆっくりでいいよ」
彼は不器用に、でも真面目に私を扱ってくれた。そこがよかった。乱暴さはなく、戸惑いながらも逃げない。その誠実さに、私はますます気持ちが高ぶっていく。
「純くんって、こういうの初めて?」
彼は小さくうなずいた。
「……うん」
「そっか。じゃあ、私がちゃんと教えてあげる」
その言葉に、彼はますます顔を赤くした。私はその反応を見て、思わず笑ってしまう。初心で、まっすぐで、少しだけ危なっかしい。そういう相手に触れていると、優しくしたい気持ちと、もっと困らせたい気持ちが同時に湧いてくる。
しばらくして、私は彼の膝の上に視線を落とした。反応は隠しきれていない。制服みたいな私の格好と、彼の真面目な顔。その対比が妙におかしくて、でも熱かった。
「純くん、ちょっとこっち向いて」
私は彼を見上げ、冗談めかして言った。
「責任、取ってあげる」
彼は何も言えないまま、ただ息を呑んだ。
そのあと私は机の下に身を滑り込ませた。外からは見えない。図書館の静かな空気の中で、私たちだけが別の時間にいるみたいだった。彼の緊張は伝わってくるのに、拒む気配はない。そのことが、私には十分だった。
やがて彼の呼吸が乱れ、声にならない吐息が落ちる。私はその変化を受け止めるように、ゆっくりと顔を上げた。彼の目は少し潤んでいて、もう後戻りできないところまで来ているのがわかる。
「気持ちいい?」
「……うん、すごく」
「よかった」
私は小さく笑って、彼の手を握った。静かな図書館の片隅で、こんなふうに誰かと秘密を共有するのは初めてだった。怖いのに、甘い。恥ずかしいのに、やめられない。
その感覚は、帰り道になってもずっと消えなかった。
本を棚に戻してから、私は何食わぬ顔で席を立った。純くんには「またね」とだけ言って、その場を離れた。振り返ると、彼はまだ少し呆然とした顔で私を見ていた。
――この人とは、たぶんまた会う。
そう思った。いや、会いたいと思った、のほうが正しいかもしれない。
あの日のあと、私は何度も図書館の場面を思い返した。静かな空間、視線の熱、触れたときの戸惑い。ひとつひとつが妙に鮮明で、夜になると何度も心の中で繰り返してしまう。
純くんとの関係は、その一度きりで終わらなかった。むしろ、あの図書館で始まったものは、そこから少しずつ形を変えながら続いていった。
次に会ったとき、私たちはもう少しだけ近くなっていた。けれど、その話はまた別の機会にしようと思う。
あの日の図書館は、私にとって忘れられない場所になった。
静かで、少し危なくて、そしてひどく甘い時間だった。