大学に進んだばかりの春、私はようやく実家を離れた。あの町にいると、どうしても昔の出来事が影のようにまとわりついてくる。両親には、地元に残るのが怖いのだと正直に話した。田中くんたちの件があってから、あの空気の中で息をするのが苦しかったのだ。
だからこそ、ひとり暮らしは私にとって解放だった。誰にも見張られない部屋。誰にも説明しなくていい夜。私はその自由を、少しだけ危うい形で使ってみたくなった。ずっと胸の奥にしまっていた欲望を、今度こそ自分の手で確かめてみたかった。
大学に入って最初に向かったのは、キャンパスでも学生寮でもなく、アダルトショップだった。自分でも、少し笑ってしまうくらい大胆だと思う。でも、もう隠れる必要はない。そう思った瞬間、足取りは妙に軽くなっていた。
店内に入ったとき、まず目に飛び込んできたのは、壁際のモニターで流れている刺激の強い映像だった。照明はやや暗く、棚の金属が鈍く光っている。空気は静かなのに、どこか熱を帯びている。客はほとんど男性で、女性の姿は見当たらなかった。
私が通路を進むと、何人もの視線が一斉にこちらへ向いた。慣れていないのか、彼らはすぐに顔をそらす。それでも、完全には隠しきれていない。遠ざかりながらも、私の体の輪郭を目で追っているのが分かった。
その視線に、なぜか胸の奥がざわついた。見られている。値踏みされている。なのに、嫌悪より先に、妙な高揚が立ち上がってくる。自分でも驚くくらい、下腹がきゅっと熱を持った。
私は少しだけ口元をゆるめた。それから、店の奥で棚を眺めていた、地味で痩せた同年代くらいの男性に目を留めた。彼は男性用のコーナーを見ていたけれど、私が近づくと肩を跳ねさせた。
「すみません。初めてなんですけど、女性向けのものって、どれが人気なんでしょうか」
声をかけると、彼は露骨に狼狽した。目が泳ぎ、返事がすぐに出てこない。何度もまばたきをして、ようやく小さくうなずく。
「えっ……ぼ、僕でいいんですか」
「はい。私、こういうのがよく分からなくて」
そう言うと、彼はますます赤くなった。私の顔と胸元、脚のあたりへ視線が落ちては、慌てて引き戻される。その挙動があまりに分かりやすくて、思わず笑いそうになる。けれど、私は笑わなかった。
「もしよかったら、選び方を教えてもらえませんか。初心者向けのものが知りたいんです」
彼は喉を鳴らし、息を詰めたまま立っていた。私は半歩近づいて、少しだけ首を傾ける。
「お願いしても、いいですか」
その一言で、彼の表情はさらに崩れた。耳まで真っ赤だ。鼻息が荒くなり、視線は落ち着かないまま、私の反応を探している。
「は、はい……」
ようやく出た声は、かすれていた。
彼に案内されて棚の前に立つと、そこには思っていた以上にたくさんの種類が並んでいた。形も大きさも、振動の強さも違う。私は素直に感心してしまった。こんなに選択肢があるのなら、ひとりで来て正解だったのかもしれない。
「初心者なら、まずは扱いやすいものがいいと思います」
彼は早口で説明しながら、ひとつの機器を手に取った。説明に集中しようとしているのに、時折こちらをちらりと見てしまう。そのたびに、目線が胸や脚に引っかかるのが分かった。
私は、その視線をわざと受け止めた。気づいていないふりをしながら、内心では少しずつ熱が上がっていく。
「なるほど……」
相槌を打つと、彼はますます緊張した顔になった。なのに、手にしている商品の説明はだんだん熱を帯びていく。まるで自分のほうが使う場面を想像しているみたいだった。
そのとき、彼のズボンのあたりに不自然なふくらみが見えた。私は一瞬だけ視線を止める。彼は気づいたらしく、慌てて手で隠した。
「す、すみません……」
「気にしないでください」
私は穏やかに笑った。すると彼は、さらに困ったような顔をする。
結局、私は彼の勧める品をいくつか選んだ。どれも初めての私には刺激が強そうだったけれど、不思議と怖さはなかった。むしろ、これから自分の知らない感覚に触れられると思うと、胸がそわそわした。
会計を済ませたあと、私は少しだけ声を落として言った。
「ありがとうございました。実は、使い方に自信がなくて……もしよければ、あとで電話で聞いてもいいですか」
彼は目を見開き、それから慌ててうなずいた。
「も、もちろんです。僕でよければ」
私はバイト先で使っている番号を伝えた。彼は受け取ったメモを見つめたまま、しばらく動けなかった。店を出る背中に、まだ彼の視線が刺さっているのが分かる。けれど振り返らなかった。
外に出ると、空気は少し冷たかった。なのに、体の内側はずっと熱いままだった。私は近くのコンビニに入り、トイレの個室へ逃げ込む。鍵を閉めた瞬間、張りつめていたものが一気にほどけた。
もう我慢できなかった。
買ったばかりの機器を取り出すと、手のひらの中で小さく震えた。最初は戸惑いもあったけれど、すぐにその感覚に飲み込まれていく。体の奥がじわじわと熱を持ち、呼吸が浅くなった。
思わず声が漏れる。恥ずかしいのに止められない。私は壁に手をついて、何度も息を整えようとしたが、快感は容赦なく押し寄せてきた。
初めての感覚は、想像よりずっと強烈だった。頭の中が白くなり、脚に力が入らなくなる。しばらくそのまま動けず、ただ余韻に身を任せていた。
落ち着いたあとも、まだ足りない気がした。もっと知りたい。もっと試したい。そんな気持ちが、静かに膨らんでいく。
私は鏡の前に立ち、自分の顔を見た。頬は赤く、目元は潤んでいる。まるで別人みたいだった。けれど、その表情を見て、私は妙に納得してしまった。
これが、隠していた私なのかもしれない。
家に戻ると、シャワーを浴びて火照りを落ち着かせ、ベッドに倒れ込んだ。しばらくすると、スマートフォンが震えた。さっきの男性からだった。
「もしもし……」
電話越しの彼の声は、緊張と興奮が混ざっているように聞こえた。
「さっきはありがとうございました。もしよければ、電話で少しアドバイスできればと思って……」
私は笑いをこらえながら返事をした。
「はい。お願いします」
彼は、最初に試すならこうしたほうがいい、と丁寧に説明してくれた。私は言われたとおりに手を動かす。電話の向こうで、彼は私の反応を確かめるように、何度も声をかけてきた。
「大丈夫ですか」
「はい……」
「今、どんな感じですか」
「あっ……すごく……」
声に出すたび、彼の呼吸も少しずつ乱れていくのが分かった。聞かれている。そう思うだけで、こちらの熱もさらに上がる。気づけば、私はもうまともに言葉を選べなくなっていた。
やがて私は、耐えきれずに短く息を吐いた。体が震え、指先まで熱が走る。電話の向こうで彼が何かを言っていたけれど、ほとんど耳に入らなかった。
しばらくして静かになると、私は大きく息をついた。頬が熱い。胸の奥がまだどくどくと鳴っている。
「……ありがとうございました」
そう言うと、彼は少し間を置いてから、また会いたいようなことを口にした。私はその言葉に、少しだけ意地悪な気持ちになった。
「今度は、目の前で教えてもらえたらうれしいです」
彼は動揺した様子で、しどろもどろに返事をする。私は思わず笑いそうになったけれど、こらえた。
「私、まだ初心者なので。いろいろ教えてくださいね」
そう言うと、彼は必死にうなずいた。電話の向こうで慌てる気配が、なんだか可笑しくて、少し愛おしかった。
私は受話器を置いてからも、しばらくベッドの上で天井を見上げていた。今日のことを思い返すと、胸の奥がじんわり温かくなる。怖かったはずの場所で、私は思いがけない自分に出会ったのだ。
それは、ただの好奇心ではなかった。見られること、触れられること、言葉を交わすこと。その全部が、私の中で静かに形を変えていった。大学生活の始まりは、思っていたよりずっと濃く、ずっと危うい。
でも、嫌いではなかった。
むしろ私は、次に彼と会う日を少し楽しみにしていた。
その夜、眠りにつくまで、何度もあの店の棚と、赤くなった彼の顔を思い出していた。
そして私は、まだ知らない感覚が、この先にもいくつも待っているのだと確信していた。